市松と恵の死から、郷田家には重苦しい空気が漂っていた。父・力三は抜け殻のようになり、俺たちも何をすべきか分からず、ただ時間が過ぎていくのを感じていた。


その日、父が座って虚ろな目で何も言わずにいると、突然、菊が父の前に立ちはだかった。彼女の顔には激しい怒りが浮かんでいる。


「力三! 何をぼんやりしてるんだい!」


「……菊……」


父はゆっくりと顔を上げたが、何も言い返すことができない。

ただ悲しげな目で彼女を見つめていた。


だが、その瞬間、菊が拳を振り上げ、力三の顔面に一撃を叩き込んだ。


「……!」


父の巨体が吹っ飛び、重々しい音を立てて地面に倒れ込んだ。

俺は息を呑んだ。あの父が、菊に殴られて吹っ飛ばされるなんて、想像もしていなかった。


「お前がこんなんでどうするんだい! あの市松と恵が死んでるんだぞ!」


菊の声が屋敷全体に響き渡った。

普段は穏やかで大らかな母だったが、今は怒りと悲しみが入り混じった凄まじい表情を浮かべていた。


「市松の仇を討たないで、このままでいいのかい!?恵の死もこのまま泣き寝入りするつもりかい!」


力三は唇を噛みしめ、目を閉じたままだった。

何かを言おうとしたが、言葉にならない。


「私が市松と恵の仇討ちをするよ!一人でも松永家に乗り込んで、あの魔法師を倒してやる!」


菊はそう言い放つと、力三の隣をすり抜け、一人で松永家に向かおうとする気配を見せた。

俺は驚きのあまり動けず、ただその場で立ち尽くしていた。


「待て、菊!」


必死で止めようとする力三が立ち上がり、彼女の腕を掴んだ。


「……一人で行っても無茶だ!お前がいなくなったら、郷田家はどうなるんだ!」


力三は必死に訴えたが、菊は振り返り、凄まじい怒声を上げた。


「やられっぱなしで、郷田家はいいのかい!?」


その声に、全員が言葉を失った。

屋敷の者たちは一瞬にして緊張感に包まれ、俺もその声に圧倒されていた。


「息子が殺され、恵が死んで、何もせずに黙っていられるかい!市松と恵はどう思ってるだろうね!? 郷田家が、やられっぱなしでこのままでいいと思ってるのか!」


菊の言葉に、俺の胸の奥で何かが燃え上がるのを感じた。

菊の怒りと悲しみが、家族や家臣たち全員に伝わり、屋敷の中に響き渡った。

俺だけじゃない、勇太も、他の家臣たちも、その言葉に震えを感じていた。

今まで抑えられていた怒りと悔しさが、一気に解放された。


「……その通りだ、母上……」


俺は静かに拳を握りしめ、立ち上がった。

負けてはいけない。

俺たちには、戦う理由がある。

市松の仇を討ち、恵の死を無駄にしないために、何かをしなければならない。


「郷田家の名が泣くぞ、力三!あんたがこの家を率いる者なら、今こそ立ち上がるべきだ!」


菊の一喝に、ようやく力三は顔を上げ、震える手で地面を押さえながら立ち上がった。

目には未だ涙が残っていたが、その瞳にはかつての力強さが少し戻ってきていた。


「……そうだな……俺が……このままでいては、郷田家が終わる……」


力三の声に力が戻り、俺たち家族はその言葉に心を動かされた。

やられっぱなしで終わるわけにはいかない。

郷田家の誇りを取り戻すためには、立ち向かうしかないのだ。


その後、菊は絢子に向かって毅然とした態度で言った。


「絢子、頼むよ。郷田家に魔法を教えてくれ。このままでは、魔法師には勝てない」


絢子は少し驚いた表情を見せたが、すぐに真剣な顔に戻り、静かに頷いた。


「分かりました。私が知っていることを、皆さんにお教えします。ただ……魔法は決して簡単なものではありません。覚悟を持って臨んでください」


菊の決意に動かされた絢子も、ついに郷田家に魔法を教えることを決意した。



菊の一喝により、郷田家の中に沈んでいた怒りと悲しみが火を噴き、家族や家臣たちの士気が再び高まった。


しかし、その菊の行動は、松永家がこちらに攻め込む準備を進めているという報せも届き、時間がないこともあっての事だった。


そんな中、菊が頼ったのは絢子だった。

絢子は、魔法が得意な斎藤家から第二夫人として郷田家に嫁いできたが、その静かで冷静な性格からか、家の中で完全に馴染めているわけではなかった。

郷田家の武士たちは、戦いと根性を重んじる者が多く、魔法を扱う絢子はどこか疎外感を抱えていた。


菊が絢子に魔法を頼んだその晩、広間にて二人は静かに話をした。

家臣たちは二人を見守っている。

絢子はいつもの冷静な表情のままだったが、やがて、ぽつりと口を開いた。


「……実は、私、郷田家に嫁いでから、ずっと少し疎外感を感じていたんです」


「絢子……」


絢子は、目を伏せたまま言葉を続けた。


「武術を中心に家を守り、戦いを重んじる郷田家にとって、私は異質な存在でした。だから、私が頼りにされることはあまりありませんでした。でも、今、こうやって菊様に頼っていただけて……嬉しいです。やっと、私も郷田家のために役立てる時が来たんだと感じています」


その言葉に、菊はじっと耳を傾けていた。そして、静かに頷いた。


「そうか……絢子、お前も郷田家の一員だよ。今までも、そしてこれからも」


菊の言葉に、絢子は少し微笑んだ。

しかし、その微笑みはすぐに消え、彼女は深刻な表情に戻った。


「ただ……松永家がこちらに攻め込む準備をしている以上、時間がありません。通常の方法では、郷田家全員に魔法を教え込むには、あまりに時間がかかります」


「時間がない……。どうすればいい?」


「一つだけ方法があります。ただ、それは……」


絢子は少し言葉を詰まらせたが、覚悟を決めたように目を見開き、続けた。


「人体に強制的に魔力を流し込む方法です。短時間で魔法の力を得ることができるかもしれませんが、魔力に耐えきれなければ廃人になる可能性もあります。最悪の場合、命を落とすことも……」


菊の表情が険しくなった。

リスクの大きさは明白だが、それでもこのまま何もしないわけにはいかない。

家を守るため、郷田家全員が市松と恵の死を無駄にしないためにも、何か手を打たなければならなかった。


「どうする? この方法を取るしかないのか?」


「はい。ただ、どうしてもリスクは避けられません。それでも、もし志願者がいれば、私が魔力を流し込む儀式を行います……」


その時、広間に重々しい足音が響き、片山 五平がゆっくりと前に出てきた。

老齢でありながらも、郷田家の中で最も尊敬される武士の一人で、戦場でも数々の功績を残してきた男だ。


「……私が最初にやろう」


その言葉に、全員が息を呑んだ。

五平は落ち着いた声で、まるで当たり前のことのように話した。


「今、郷田家が危機にあるならば、私が身をもって試すのが筋だろう。若者たちに無茶をさせるわけにはいかん」


「五平様……!」


菊も止めようとしたが、五平の意志は固かった。

彼は静かに絢子の前に立ち、覚悟を決めた顔をしていた。


「やらせてくれ。もし私が耐えきれなければ、それが皆への教訓になる」


絢子は一瞬、ためらいを見せたが、五平の決意を見て、ゆっくりと頷いた。


「……分かりました。では、始めます」



絢子は儀式の準備を整え、魔法陣を描いた。

その中に五平が座り、絢子がゆっくりと彼に手をかざす。


「では、魔力を流し込みます。耐えてください……」


絢子がそう告げると、次の瞬間、強烈な魔力の波動が五平の体に注ぎ込まれた。五平の顔が一瞬にして苦痛に歪む。


「……っ!」


その瞬間、五平は激しく体を震わせ、血管が浮き出し、汗が滴り落ちた。

周りの者たちは息を飲んでその様子を見守る。

だが、魔力はどんどん五平の体を蝕んでいくようだった。


「五平様、大丈夫か……!」


俺は思わず叫んだが、五平は苦しげに首を振りながら耐え続けていた。

しかし、その耐えがたい痛みは、五平の体を限界まで追い込んでいた。


突然、五平は激しく咳き込み、血を吐き出した。


「……!?」


皆がその場に凍りつく。

五平の体は限界を超えた。

魔力に耐えきれず、彼の体は徐々に崩壊していく。


「五平様……!」


「……無理だったか……すまない……」


最後の言葉を絞り出すように言った後、五平は力尽き、その場で倒れた。


「五平様……! 五平様ぁ!」


誰もが声を上げ、彼の死を嘆いた。

郷田家の最も尊敬される武士が、魔法の力に抗えず、命を落とした。



五平の死は、皆に重くのしかかった。

しかし、その死は決して無駄ではなかった。

郷田家の者たちは、今後の魔法の危険性を知り、同時に覚悟を決めることができた。


「……魔法を扱うには、命がけの覚悟が必要だ。五平様の死を無駄にしないためにも……俺たちは進むしかない」


俺はその場で、再び拳を握りしめた。

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