初陣
俺が10歳になった年、兄の市松がついに戦場に出ることになった。
郷田家の一員として、いつか戦に出る日は来ると分かっていたが、まさかこんなに早く訪れるとは思わなかった。
「市松兄さん、本当に行くのか?」
俺は信じられない思いで、出陣の準備をする市松に尋ねた。
市松は俺よりも4つ年上で、これまでずっと俺にとって頼りになる兄貴だった。
常に冷静で、技術も高く、何度も俺を助けてくれた。
「仕方がないさ、隼人。今度の戦は、松永家が本気で仕掛けてきている。父上も、一樹兄さんも戦場に出てる。俺も行かないわけにはいかない」
市松はいつものように穏やかな口調でそう答えたが、彼の表情はどこか張り詰めたものだった。
戦場に出ることへの緊張は、隠しきれなかったのだろう。
「気をつけてくれよ、兄さん……」
「お前もな、隼人。まだ戦には出られないが、郷田家を守る役割はお前にもある。しっかりと家を守ってくれ」
市松は微笑み、俺の肩を軽く叩いた。
市松が戦場に出たのは、松永家との決戦だった。
松永家は、かねてから郷田家に対して敵対心を抱いており、今回は魔法師を雇っていたという話が広がっていた。
俺は戦場に出ることは許されなかったが、家の者たちが緊張しているのを感じていた。
「松永家が魔法師を雇うとは……」
郷田家にとって魔法は未知の力であり、俺もその影響をまだ直接感じたことはなかったが、これが戦場にどんな影響を及ぼすのか、誰も予想できなかった。
そして、悪夢の知らせは突然訪れた。
市松が松永家の魔法師によって討たれた——そんな報せが、戦場から急ぎもたらされたのだ。
「市松兄さんが……?」
俺は信じられなかった。
市松は冷静で、技術も優れている。
優しいだけじゃなく凄まじい強さ。
あの市松が、死ぬなんてことがあるのか?
俺の中で現実感が失われ、ただその知らせをぼんやりと受け取ることしかできなかった。
それから数時間後、戦場から帰ってきたのは、無言の父と、市松の冷たくなった体だった。
市松の遺体が屋敷に運ばれてくると、最初に父・力三がその前で立ち尽くした。父は何も言わず、ただその場に膝をついた。
次の瞬間、声にならない叫びを上げ、号泣した。
「市松……お前が……」
父が泣き崩れる姿を見たのは初めてだった。
豪傑として名を馳せ、どんな困難にも冷静に立ち向かってきたあの父が、今はただの父親として息子の死を嘆いていた。
恵もまた、市松の亡骸の前で声を上げて泣いていた。
彼女は市松の母で、優しく穏やかな笑顔で俺たちを包み込んでくれていた。
だが、今はその笑顔は消え、涙に暮れていた。
「市松……どうして……」
一樹も、母を支えながら涙をこらえることができず、ただ静かに涙を流していた。
普段は冷静で、感情を表に出さない一樹が、声を震わせて泣いている姿に、俺の心も張り裂けそうだった。
俺は市松の顔を見て、抑えきれずに号泣した。
「市松兄さん……どうして……」
何度もその言葉を繰り返しながら、涙が止まらなかった。
これまで何度も市松に助けられ、支えられてきた。
強くて頼りになる市松が、もうこの世界にいないという事実が信じられず、ただ涙が溢れた。
勇太もまた、俺と同じように市松の死に打ちひしがれ、泣き崩れていた。
俺たち兄弟にとって、市松は大きな存在だった。
彼のいない郷田家がどうなるのか、考えることさえできなかった。
菊も、市松の亡骸を前にして、涙を流していた。
彼女は普段は強く、大きな体で家族を守る存在だったが、今はただ、悲しみに打ちひしがれているようだった。
その一方で、二郎と絢子も静かに市松の死を見つめていた。
二郎は市松ほど戦いには関わっていなかったが、兄の死を前にして、悲しみをこらえるような表情を浮かべていた。
彼もまた、家族の一員として、その死を重く受け止めているのが伝わってきた。
絢子は表立って涙を流すことはなかったが、悲しげな顔をしていた。
彼女は冷静な性格で、感情を表に出すことは少ないが、その心の中には深い悲しみがあったのだろう。
市松の死は、郷田家にとって大きな傷となった。
俺にとっても、家族の一人を失うという痛みは、言葉にできないものだった。
市松がいなくなった現実を受け入れるには、あまりに突然で残酷だった。
戦場の魔法という異質な力が、兄の命を奪い、家族の心を引き裂いたのだ。
「……強くならなければ……」
俺は涙で視界がぼやける中、自分に言い聞かせた。
この修羅の国で生き残るために、俺はさらに強くならなければならない。
市松が戦場で命を落とした日から、郷田家の空気は一変した。
次の日も、さらにその次の日も、父は泣いていた。
あの豪傑だった父・力三が、まるで別人のように涙を流し続け、家の中は重苦しい沈黙に包まれていた。
俺はただ、そんな父の姿を見つめるしかなかった。
「父上……」
声をかけようとしても、父は返事をしなかった。
かつての力強い威厳も、戦場で命をかけて戦ってきた豪胆さも、すべてが消え去ったかのようだった。
そして、父が市松の死に打ちひしがれる中、家の中にさらなる悲劇が訪れた。
恵が病に倒れたのだ。
市松を失った悲しみが、彼女の心と体に重くのしかかっていたのだろう。
恵は、市松の母であり、ずっと優しく穏やかな母親だった。
だが、その笑顔が日に日に失われ、やがて床に伏すようになった。
「母上、大丈夫ですか……?」
一樹が、必死に恵を看病していた。
一樹にとっても、母を失う恐怖は計り知れないものだっただろう。
俺もできる限り手伝い、恵のために水や薬草を運び、彼女が少しでも楽に過ごせるよう努力した。
だが、恵の体調は一向に良くならなかった。
「どうして、こんなことに……」
一樹は、夜も寝ずに恵のそばに付き添っていた。
その目は疲労と悲しみに満ちていたが、それでも母を見捨てることはできなかった。
俺もその姿を見て、何とかして彼女を助けたいと思い、できることを精一杯やった。
だが、それでも時間は無情だった。
市松が死んでから2週間後、恵はまるで市松を追うかのように、静かに息を引き取った。
「母上……」
一樹の絞り出すような声が、屋敷に響いた。
俺も、その場に崩れ落ちた。
どんなに努力しても、どんなに手を尽くしても、母親の死は避けられなかった。
市松を失い、その痛みに耐えきれずに恵もまた命を落としてしまったのだ。
「これが……現実なのか……」
俺は呆然としながら、ただ無力さを感じていた。
家族が次々と消えていくこの修羅の国で、俺は何もできずにただ彼らを見送るしかないのだと痛感した。
恵の死に、父はさらに深く傷ついた。
母が死んだと聞いた瞬間、父はそれまで流していた涙すら枯れ果てたように、無言のまま立ち尽くしていた。
そして、まるで魂が抜けたかのように、彼は完全に抜け殻のようになってしまった。
かつてのあの豪傑はもういない。
父は、目の前にいるのに、まるで遠くの存在のように見えた。
「……父上」
俺が声をかけても、父は何も答えない。
ただ、虚ろな目で遠くを見つめている。
市松を失い、恵を失い、父はもはや自分自身を見失っていた。
「どうすれば……」
俺は、絶望の淵に立たされていた。
力を振り絞って戦場に出ていた家族が次々に倒れ、父はただの抜け殻となり、郷田家の屋敷には重苦しい沈黙と悲しみが漂い続けていた。
家族の力が、この世界での俺の支えだった。
それが一つ、また一つと消えていく中で、俺はどうすればいいのか、どこへ進めばいいのか分からなかった。
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