修羅の国
俺は五歳で、すでに獣肉を毎日食べるようになっていた。
最初は勇太や母、兄たちから咎められたが、父・力三が「好きにさせてやれ」と一言言ったことで、誰も俺に文句を言わなくなった。
父の言葉が絶対であることを痛感した瞬間だった。
「父さんの権力……本当に、すごいんだな」
父はめったに家に帰ってこない。
いつも戦場に出ていて、家に戻る時はひどい傷を負っていることがほとんどだ。
そんな父が何を考えているのか、俺にはまだ理解できない。
だが、その言葉一つで、家全体の空気が一変する。
母たちも、兄たちも、口をつぐんでしまう。
そして、ついにその時がやってきた。
松永家との合戦——郷田家と宿敵である松永家の間で、戦が起こったのだ。
母の菊をはじめ、他の二人の妻、そして二郎以外の兄たちが連れ出される。
俺も例外ではなかった。
戦場に立つにはまだ早い年齢のはずだが、見学という形で俺も一緒に連れられて行くことになった。
初めて見る本物の戦場。
「隼人、気を強く持てよ。これが俺たちの世界なんだからな」
勇太が少し心配そうに声をかけてくれたが、その顔もどこか緊張しているように見えた。
俺はただ無言で頷いた。
戦場に足を踏み入れた瞬間、俺の胸に襲いかかってきたのは恐怖だった。
「これは……」
辺りは凄惨な光景が広がっていた。
敵兵と味方が入り乱れ、血しぶきが飛び交っている。
剣と槍が激しくぶつかり合い、負傷した兵士たちが倒れ込む。
死体もあちこちに転がっていて、地面はすでに真っ赤に染まっていた。
「こんなの……」
俺は足がすくんだ。
見ているだけで、体が震える。
これが本当に現実なのか?
俺がいたあの平和な日本からは想像もつかない光景が目の前に広がっている。
目をそらそうとしたが、逃げ場はどこにもなかった。
それまで静かに見学していた俺は、突然込み上げてくるものに耐えきれず、思わず地面に膝をつき、吐いてしまった。
臭い、血、死の恐怖——すべてが俺の体に重くのしかかっていた。
「……う……うぇぇ……」
吐きながらも、俺はその場から動けなかった。
周囲には兄たちがいて、勇太や一樹、市松も緊張した面持ちで戦場を見ていた。
彼らもまた、初めての本物の戦を目の当たりにしているのだろう。
だが、俺たちの試練はこれだけでは終わらなかった。
戦が終わり、郷田家が勝利を収めた後、父・力三が戦場に戻ってきた。
その時、捉えた敵の兵士たちが数名、目の前に引き出された。
敵兵は縄で縛られ、地面にひれ伏していた。
血まみれの姿で、すでに戦う力は残っていない。
「これから、お前たちにはやってもらうことがある」
父は冷静に言い放った。
兄弟たちは父の言葉に無言で従うしかない。
俺もまた、何が起こるのか分からず、ただ立ち尽くしていた。
「隼人、一樹、市松、勇太、お前たち一人ずつ、この敵兵の首を討て」
それは、まるで当然のことのように告げられた。
「な、何……?」
俺は心の中で叫んだ。
敵兵を一人ずつ、自分たちで斬る——そんなこと、できるはずがない。
だが、兄たちの表情を見て、俺はさらに恐怖を感じた。
誰も反対しない。
誰も逃げようとしない。
彼らもまた、黙ってその命令を受け入れていた。
「これは……修羅の国だ」
その言葉が頭をよぎった。
ここでは、強さが正義だ。
弱さは許されない。
俺は何度もそれを思い知らされてきた。
この試練から逃げれば、兄たちや家族からも見放されるかもしれない。
「俺も……やるしかないのか……」
一人ずつ、兄たちが敵兵の前に立つ。
まずは一樹が静かに刀を抜き、無言で敵兵の首を斬った。
血が飛び散る。
次に市松が続き、ためらいもなく斬る。
勇太も顔をしかめながらも、その命を奪った。
そして、俺の番が来た。
「隼人、覚悟を決めろ。ここで逃げるわけにはいかない」
勇太の声が耳に響く。
俺は震える手で刀を握り、敵兵の前に立った。
目の前の男は、疲れ果て、抵抗する力もなくただ俺を見つめている。
その目には、諦めが漂っていた。
「……ごめん……」
そう呟きながら、俺は刀を振り下ろした。
手が震え、目を閉じたまま斬った。
重い手応えと共に、男の首が落ちた。
俺の手には血がべったりとついていた。
吐き気が再び襲ってきた。
だが、今度は吐かなかった。
何とか体を震わせながら、俺は刀を下ろした。
これが、修羅の国——俺が生きる世界の現実だ。
「……終わった」
恐怖と、嫌悪感と、罪悪感が入り混じった感情が渦巻く中、俺は立ち尽くしていた。
「ここで生き残るには、強くなるしかない」
逃げることは許されない。
俺はこの世界で生きるために、ただ強くなるしかないのだと、改めて痛感した。
松永家との合戦が終わり、俺たち郷田家は勝利を収めた。
その知らせが伝わると、屋敷では勝利の宴が開かれることになった。
戦場から戻った俺は、まだ戦の恐怖と凄惨な光景を忘れられないまま、兄たちとともに宴の場に顔を出した。
酒が振る舞われ、豪華な料理が並ぶ。
そして、宴の真ん中には敵将の首が飾られていた。
首は血で染まり、目を閉じたまま無言でそこに鎮座している。
兵たちは酔い、勝利の喜びに浸っているが、俺はどうしてもその光景を直視できなかった。
「……これが、修羅の国か……」
俺の胸には再び吐き気が込み上げてきたが、何とかそれを飲み込んだ。
だが、みんなが無事だったわけではない。
戦場では、友も仲間も失われていた。
死んだ者もいれば、重傷を負った者もいる。
俺の目の前で、あれほどの血が流れたことを忘れることはできない。
その時、幼馴染の慶次が目に入った。
彼は青ざめた顔で、何かを呟いている。
「どうした……慶次?」
俺が声をかけると、慶次は焦ったように俺を見つめ、震える声で言った。
「父が……父が怪我をしたんだ。戦場で……」
慶次の父、西脇泰介が怪我をしたという。
俺は慶次の手を握り返し、言葉をかけようとしたが、何も言えなかった。
泰介は知略に優れ、戦場では重要な役割を担っていたはずだ。
怪我をしたと聞いて、胸がざわついた。
宴が続く中、父・力三が立ち上がり、勝利を祝う言葉とともに、戦場で功を挙げた者たちに報奨を与え始めた。
金や米が配られ、家臣たちは一様に頭を下げて感謝を述べている。
勝利の余韻に包まれた宴は続いていく。
しかし、宴の終盤に差しかかると、父が重々しい声で宣言した。
「さて、これから、ある者たちを処罰する」
その場に緊張が走る。
家臣たちが一斉に顔を引き締め、無言のまま父を見つめた。数人の負傷者が、武士たちによって引き出された。
その中に、西脇泰介の姿があった。
慶次が息を呑んだ。
俺も驚いて彼を見つめる。
泰介の顔は蒼白で、傷を負った様子がはっきりと分かる。
だが、俺はすぐに異変に気づいた。
泰介の背中には深い傷が刻まれているが、身体の前面には傷がない。
その時、俺は何かが起きていることを感じた。
「父……どうして、泰介が……」
父は冷たい目で泰介を見つめ、ゆっくりと言葉を発した。
「西脇泰介は、戦場で敵前逃亡の疑いがある」
その言葉が、泰介の命を奪う宣告だった。
場にいる全員が、息を呑んだ。
泰介の背中に刻まれた傷——それが逃げる際についたものであるという疑いをかけられていたのだ。
「武士としての恥だ。戦場で背を向けて逃げることは、他の者の士気を削ぐ」
父の言葉に、家臣たちもざわつき始めた。
泰介は怯えた表情で父に向かって頭を下げた。
「殿……私は……決して逃げたわけではありません……戦場で敵に背を向けたのは、不運な出来事が……」
泰介の声は震えていた。
だが、父の表情は変わらなかった。
「言い訳は無用だ。武士として、前に傷が無いという事実が全てだ」
背中の傷は、戦場で逃げた者に刻まれる屈辱の証。
泰介は、どれだけ言い訳をしようとも、武士としての誇りを守るために首を差し出さなければならない。
それがこの世界の掟だった。
「待ってくれ……!」
慶次が突然立ち上がり、父の前に飛び出した。
俺は驚いて彼の腕を引こうとしたが、彼の目には涙が溢れていた。
「父上は……逃げてなんかいない! 戦っていたんだ!」
だが、力三はその言葉に耳を貸すことはなかった。
父は冷たく、鋭い目を慶次に向けた。
「慶次、お前も武士の子なら、この場の掟を守れ」
その言葉に慶次は震えながらも、黙り込んだ。
俺は胸が締め付けられる思いだった。
「……泰介、覚悟を決めろ」
父の命令が下り、その場で泰介は無言で立ち上がり、刀を突きつけられた。
彼はもう抗うことをやめ、静かに目を閉じた。
「……お前は、立派な武士だった」
父は最後にそう言い、泰介の首を一瞬で斬り落とした。
血が吹き出し、宴の場に凄まじい沈黙が広がった。
慶次はその場に崩れ落ちた。
俺は何もできなかった。
隣に座る慶次に手を差し伸べようとしたが、その震える体に触れることすらできなかった。
しかし、それで終わりではなかった。
「泰介の一族郎党は、ここで全て処刑する」
その言葉に、俺は息を呑んだ。
泰介の妻である沙織、妹の美鈴——彼ら家族は全て処刑されるという。
遺恨を残さぬため、家族全員が死をもってその恥を償うことがこの世界の掟だったのだ。
俺の胸は怒りと恐怖で張り裂けそうだった。
これがこの世界の現実なのか?
武士としての誇りと名誉——それを守るためには、家族全員の命まで奪われる。
西脇家はその日のうちに全員処刑された。
慶次も、父が犯した「罪」を償うために処刑された。
俺は無力だった。
何もできず、ただ友達が死んでいくのを見つめることしかできなかった。
「これが、修羅の国か……」
泣きじゃくる慶次の最後の姿を見ながら、俺はただ無言で立ち尽くしていた。
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