訓練
俺は五歳になった。
背はさらに伸び、今では兄の勇太よりも大きくなっている。
二歳年上の彼を追い越すなんて、俺自身も驚いていた。
けれど、身長が高いからといって、すぐに強くなれるわけじゃなかった。
郷田家の子として、ついに俺にも正式な訓練が始まった。
今まで遊びの延長で木剣を振っていただけだったが、これからは本格的な武士の道だ。
幼い俺にとって、それは不安でもあり、少しの期待もあった。
「今日からお前も武士として鍛えられるんだな、隼人」
勇太がにやりと笑う。
彼は既に訓練を始めて二年が経っている。
体は俺より小さいものの、筋肉はしっかりと鍛えられ、木剣を握る手にも力がこもっている。
俺にとっては、最も身近なライバルだ。
「お前が俺に勝つのは、まだ早いぞ」
そう言われ、俺は歯を食いしばった。
体格で勝っていても、それが技の差を埋められるわけじゃない。
訓練が始まると、それを痛感させられた。
初日の訓練は、木剣を使った基礎の打ち合いだ。
勇太と組んで、互いに打ち合う。
俺は全力で剣を振るったが、勇太の素早い動きに翻弄され、簡単に腕を打たれてしまった。
「ちょっと、隼人。もっとちゃんと振れよ」
勇太は笑いながらも、容赦なく木剣を振る。
俺は必死に打ち返そうとするが、勇太の技には到底かなわない。
何度打ち合っても、俺の剣は彼に届かず、逆に何度も腕や胴に打撃を受けた。
「くそっ……!」
気合いを入れようとするが、全く追いつけない。
体が大きくても、技術がない俺にはそれを活かす術がなかった。
その後、市松と組むことになった。
市松は四歳年上、俺にとっては憧れの兄だ。
彼はいつも面倒見がよく、優しい。
けれど、戦いとなると、彼の動きはまるで別人のように鋭くなる。
「隼人、焦らなくていい。ゆっくり振り下ろしてごらん」
市松はにこやかに言うが、その瞬間に俺の隙を見逃さず、木剣が素早く俺の肩を捉える。
「痛っ……!」
「大丈夫か? 強さは、力だけじゃないんだよ。体の動かし方、息の使い方、それが技なんだ」
市松はそう言いながら、何度も俺を打ちのめす。
俺の剣は彼に全く当たらない。
彼は俺の一撃を簡単にかわしてしまう。
何度も挑戦したが、結局、俺は打ち負かされた。
一樹はさらに強い。
彼は六歳年上で、郷田家の長男だ。
冷静沈着で、何事にも動じない性格を持っている。
俺が一樹と戦うと、まるで大人と子供のような差を感じた。
「隼人、お前の力はまだ生かせていない。剣を振るだけでは勝てない」
一樹の言葉は淡々としていた。
俺がどれだけ力を込めて木剣を振り下ろしても、一樹は軽くかわし、逆に一瞬の隙を突いて俺を地面に倒した。
「まだまだだな。もっと落ち着け」
俺はその言葉に悔しさを覚えたが、それ以上に自分の未熟さを痛感していた。
体格が大きいからといって、それだけではどうにもならないことを思い知らされた。
兄たちが訓練で汗を流す中、二郎だけは一緒に訓練をしていなかった。
二郎は俺の五歳年上だが、体が弱いため、武術には参加しない。
彼はいつも屋敷で本を読んだり、勉強をしている。
優しい兄で、俺に対してもよく声をかけてくれる。
「隼人、あまり無理をするな。お前にはまだ時間があるんだから、焦ることはない」
二郎は穏やかに笑ってそう言った。
だが、俺はその言葉を素直に受け入れることができなかった。
毎日、訓練で兄たちに負け続け、自分が思ったよりも強くなれないことに苛立ちを感じていたからだ。
訓練が終わり、俺はいつも打ち身や筋肉痛だらけで戻る。
自分の体が悲鳴を上げるほどの辛さに、時折心が折れそうになる。
それでも、訓練を休むことは許されなかった。
強くなるには、この苦しみを乗り越えなければならない。
そんな俺を恵が優しく励ましてくれた。
彼女は市松や一樹の母親だが、俺にもよく気をかけてくれる。
「隼人、あまり無理をしすぎないでね。あなたはこれからもっと成長するわ。焦らず、じっくり自分を磨いていきなさい」
彼女の言葉に少しだけ救われた気がしたが、それでも訓練の厳しさは変わらない。
俺は次の日もまた、木剣を握り、打ち合いを続ける。
そして、俺が最も理解に苦しんだのは、訓練のやり方だった。
「気合いが足りん!」
「もっと根性を見せろ!」
指導者たちは常にそんなことばかりを言う。
技術よりも気合いや根性を求められるこのやり方が、俺にはどうしても納得できなかった。
現代の日本で学んできた俺には、どう考えても非合理的に思えたのだ。
「これじゃ体を壊すだけだろ……」
そんなことを心の中で呟きながらも、俺は声を上げることができなかった。
郷田家に生まれた以上、武士としての道を歩むしかない。
それが、どれほど厳しい道であっても。
だけど、俺の心には違和感が消えなかった。
毎日の訓練は、想像を超える過酷さだった。
訓練の日々は続く。
体がどんなに悲鳴を上げても、休む暇はない。
教えを受ける師範は二人——片山五平と大谷剛蔵。
どちらも郷田家で一目置かれる存在だ。
片山五平は老人だが、技術と経験を持って俺たちを指導してくれる。
彼の指導は静かで的確だ。
細かい動きや剣の振り方を根気よく教えてくれるが、厳しさも感じさせた。
彼は力任せの動きを嫌い、効率よく動くことを強調する。
「隼人、力に頼るな。剣は体全体で扱うものだ」
俺は五平の言葉に耳を傾けるが、実際の訓練では、どうしても自分の体の大きさに頼ってしまう。
それが、すぐに五平に見抜かれる。
「まだ甘い。力を使うなと言っただろう」
彼の声に、俺は無言で頷くしかなかった。
もう一人の師範、大谷剛蔵は、まさに豪傑という言葉が似合う人物だ。
筋肉の塊のような体で、常に大声を上げて指導する。
彼の訓練はとにかく厳しい。
「気合いが足りん! もっと根性を見せろ!」
剛蔵の訓練では、ただ木剣を振るうだけではなく、時には重たい石を持ち上げ、走らされ、時には体力が尽きるまで何度も同じ動きを繰り返させられる。
とにかく、根性が求められた。
俺は何度も膝をつき、汗だくになりながら訓練をこなすが、心の中では次第に不満が膨らんでいた。
「これじゃ体が壊れる……」
俺は現代日本でスポーツ科学に触れてきた知識があった。
効率的に体を鍛える方法を知っていた俺にとって、この訓練は明らかに無駄が多く、体力を消耗するだけのものに感じられた。
気合いや根性で何とかなるものではないと、俺の頭の中では叫んでいた。
だが、この世界ではそんなことを言う勇気はない。
言ったところで理解されないだろうし、何より、俺は逃げるわけにはいかなかった。
「強くならなければ、死ぬ」
そう自分に言い聞かせながら、俺は剛蔵の無茶な指導に耐え続けた。
訓練の後、屋敷に戻ると待っているのは質素な食事だった。
郷田家は裕福な家だが、食事は至って質素だ。
米、味噌、漬物、そして魚。
栄養バランスを考えると、俺にとっては明らかにタンパク質が足りない。
「これじゃ体が持たない……」
俺はそう思い、ある日、獣肉を食べることを決意した。
屋敷には獣肉があったが、郷田家では獣肉を食べるのは卑しい事とされていた。
貧しい者や田舎者が食べる食べ物だとされ、武士階級の者たちには敬遠されていた。
「隼人、お前、まさか獣肉を食べようとしてるのか?」
ある日、勇太が俺を見つけ、驚いた顔で止めようとした。
「馬鹿かお前、そんなものを食べたら体に悪いに決まってる! それに、武士としての誇りも捨てる気か?」
俺は彼の言葉に一瞬ためらったが、それでも強くなるためには何としてでも肉が必要だと思った。
タンパク質が不足すれば、どんなに訓練しても筋肉がつかない。
俺の知識では、それが確かなことだった。
「でも、これじゃ体がもたない。どうしても、肉がいるんだ」
勇太の反対だけではなかった。母の菊や、市松、一樹も俺を咎めた。
「隼人、獣肉なんて汚らしいものを食べてはだめだ。郷田家の名が泣くわよ」
母の言葉に俺は戸惑った。
ここでも母親の価値観は、俺の知るものとはかけ離れていた。
だが、その時、父・力三が俺の行動を見て、ふと口を開いた。
「隼人に好きなようにさせてやれ」
その一言で、場の空気が凍りついた。
誰もが、父の言葉に逆らうことはできない。
勇太も菊も、何か言いかけたが、結局口を閉ざした。
力三は、俺にとってまだ得体の知れない存在だった。
めったに家に帰ってこないし、帰ってきた時はいつも傷だらけで、無言のまま過ごしている。
彼が何を考えているのか、俺には全く分からなかった。
だが、今日、父は俺の行動を認めてくれた。
「……ありがとうございます」
俺は父に向かって頭を下げた。
そして、その日の食事に獣肉を加えることを許された。
これで、俺は少しでも強くなれるはずだ。
栄養が足りなければ、どれだけ訓練を続けても意味がない。
それだけは、俺が今の世界で信じられる確かな知識だった。
次の日も、過酷な訓練は続く。
気合と根性が全てだと言われても、俺は自分の方法で体を鍛え、強くなろうと心に決めた。
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