違和感の始まり

俺は三歳になっていた。

赤ん坊の頃の不自由さはなくなり、体も思うように動くし、言葉も少し話せるようになった。

だが、何かがずっとおかしい。


俺はいつも、屋敷の中をうろついていた。

広い屋敷の中にはいくつも部屋があって、知らない場所も多い。

歩けるようになった俺は、そんな屋敷を探検するのが好きだった。

でも、何よりも俺が気にしているのは、この世界のことだ。


「ここ、本当に日本なのか……?」


三年間この世界で過ごしながら、俺はずっと違和感を抱いていた。

最初は戦国時代だと思っていた。

でも、どうもおかしい。

言葉は日本語に似ているけど、少し違う。

掛け軸に書かれている文字も、俺の知っている漢字でも平仮名でもない。

それらしい形はしているが、どこか流れるような、見慣れない文字だ。


屋敷にいる大人たちが話す言葉も、耳に馴染みながらも微妙に異なる。

俺は少しずつ、ここがかつての日本とは違う場所だと感じ始めていた。


俺が歩き回っていると、いつも誰かが声をかけてくる。

特に兄たちは俺のことをよく面倒見てくれた。

とくに勇太はよく遊んでくれた。

俺の二歳上で、よく一緒に駆け回る。


「隼人、こっちだ!」


勇太はいつも元気だ。

母の菊に似ているのか、すでに体も大きくて力強い。

俺は彼に追いつくように背が伸び、いつの間にか同じくらいの体格になっていた。

俺が三歳で、勇太が五歳。

なのに俺たちは並んでみると、ほとんど変わらない背丈だ。


「俺、なんでこんなに大きいんだ……?」


周りの子供たちとも遊ぶが、明らかに俺だけが大きい。

他の三歳児はもっと小柄で、力も弱い。

俺は彼らと遊ぶたびに、その違いを感じていた。

しかも、一度も風邪をひいたことがない。

前世では子供の頃の俺はもっと体が弱かったはずなのに、ここではずっと元気だ。


兄たちの世話を受けながら、俺はだんだん、この世界に対する不安を強めていた。


「隼人、また走るぞ!」


勇太が声をかけてくる。

俺たちはいつものように庭で駆け回った。

勇太の体は力強く、俺が全力で走ってもなかなか追いつけない。

だが、しばらくすると、彼も俺も息が切れて立ち止まる。

息を整えながら、ふと俺は勇太に聞いてみた。


「なあ、兄ちゃん、ここって、どんな国なんだ?」


勇太は、俺の突然の質問に目を丸くした。


「どうしたんだ? 隼人、急に」


「いや、なんか、変な感じがしてさ……」


俺は自分の疑問をどう言葉にすればいいか分からなかった。

ここが戦国時代の日本だと思っていた。

でも、戦国時代にしては、武具や道具も妙だ。

鉄でも鋼でもない、見たこともない素材が使われている。

触れた時の感触も違う。

何もかもが少しずつ、俺が知っていた世界とずれている。


「ここはジパルドだろ?」


勇太は不思議そうに言った。


「それ以外に何があるんだ?」


「……そっか」


俺はそれ以上、何も聞けなかった。

勇太には、俺が感じている違和感が理解できないようだ。

彼にとって、ここが当たり前の世界で、疑問を抱くことすらない。


俺の心には、不安が募るばかりだった。

この世界は本当に日本なのか?

それとも、俺が生きていた世界ではないのか?

答えはまだ見つからない。


だが、一つだけ確かなことがあった。

この世界で食べる米が、やけにうまい。

食卓に並ぶ魚や漬物もいいが、米がとにかく美味い。

無農薬だからか、昔の日本の味と似ているが、それ以上に自然な甘みがあった。


「まあ、せめてこの米がうまいだけでも救いだな……」


俺は米を口に運びながら、そう呟いた。

この世界の美的感覚や文化にはまだついていけないが、米だけは俺を癒してくれる。

そんな小さな安心を感じながら、俺はまだ自分の周りにある違和感を消せないでいた。


父の姿はほとんど見ない。

たまに屋敷に帰ってくる時は、いつもひどい傷を負っていた。

傷だらけで、まるで死にかけたかのような姿で戻り、誰もが無言で彼の傷の手当てをする。

俺は遠くから、その様子を見つめることしかできなかった。

父の存在が、俺にとっては得体の知れない、恐ろしいものに感じられた。


「父さん……なんであんなに傷だらけなんだ?」


家族の中でも、父との距離は遠い。

俺にとって、父はどこか別世界の人間のような存在だった。



俺は四歳になっていた。

歳を重ねるごとに、体もさらに大きくなっていく。

何もかもが順調に見えた。

だが、この世界の厳しさを、俺は思い知らされることになる。


弟が生まれた。母・菊がまた子供を産んだのだ。

小さな弟。俺は兄として、この新しい命を楽しみにしていた。

でも、弟はすぐに亡くなった。

産まれてからほんの数日で、何も言うことなく、静かに息を引き取った。


俺は、言葉が出なかった。


「どうして……?」


屋敷の人たちも、特に悲しんでいるようには見えなかった。

父も母も、まるでそれが「当然のこと」だとでもいうかのように、何も感じていないかのように見えた。

俺にとっては信じられないことだった。命が、こんなにも簡単に失われてしまうものなのか?


「……またか」


そう呟く家臣の声を耳にした。

どうやら、郷田家ではこういうことが珍しくないらしい。

新しく生まれた弟や妹がすぐに亡くなってしまうことが、頻繁に起きている。

病気だと言っていたが、詳しいことはわからない。

ただ、この世界では生きること自体が厳しいんだと、俺は初めて思い知らされた。



ある日、他の家の子供と喧嘩になった。

年上の子だ。

名前は忘れたが、近くの家臣の家の子供だった。

言い合いが始まり、気づけば、俺は相手を殴っていた。

ただの口論で終わると思っていたのに、俺の拳が彼に当たると、相手はバランスを崩して地面に倒れ込み、そのまま大怪我をしてしまった。


「しまった……」


俺はその瞬間、全身に冷や汗が流れた。

彼が苦しそうに転がる姿を見て、動揺した。

自分が何をしたのかも理解できず、ただぼんやりとその場に立ち尽くしていた。

家の大人たちが集まり、子供を抱きかかえて連れ去っていった。


「怒られる……俺、怒られる……」


そう思った。

俺が悪いことをしたんだから、きっと厳しく叱られるだろうと覚悟していた。

だが、予想とはまったく違うことが起きた。


怒られたのは、怪我をしたその子供だった。


「情けない! そんなことで大怪我をするなんて、恥だぞ!」


家の大人たちは、その子を叱り飛ばしていた。

俺が悪いはずなのに、誰も俺を責めない。

むしろ、「お前が弱いのが悪い」と、彼の方を責めていた。

俺はその様子を呆然と見ていた。


「な、なんで……?」


俺は混乱していた。

俺が相手を殴ったのに、怪我をした方が怒られている。

俺はただ誤って殴ってしまっただけで、こんな大事になるなんて思ってもみなかった。

けれど、どうやらこの世界では強さが全てのようだ。

強い者は何をしても許され、弱い者は責められる。

そういう世界なのだと、その時初めて理解した。


「怖い……」


強さが正義——俺はそれが恐ろしいと感じた。

何かが間違っている。

それでも、ここではそれが当たり前のこととして受け入れられているらしい。

俺がこの世界で生きていく以上、それを無視することはできないのだろう。

だが、俺の心には、ずっと不安が残っていた。



その日も、母と一緒に食事をしていた。

ふと、周りの人々が母のことを話しているのが耳に入ってきた。


「本当に、郷田家の奥方は絶世の美女だな……」


「ここまでの美貌を持つ人は滅多にいない……」


俺は、その言葉を聞いた瞬間、思わず顔をしかめた。

母・菊が絶世の美女?

あの巨大で、ふくよかで、引き眉とお歯黒の、昔の日本の基準でも少し古臭い装いをしているあの母が……?


「どう見ても、俺には……」


俺は言葉にできない違和感を感じていた。

もちろん、俺の母が特別な存在であることは理解している。

あの巨体、あの圧倒的な存在感——それは誰もが認めるだろう。

だが、それが美しいかと言われると、俺にはどうしても納得できなかった。


母がにこりと笑い、俺に食事を勧めてくる。

俺はその笑顔に微かに震えながら、米を口に運んだ。

この世界の美的感覚は、俺が知っているものとは全く違うらしい。

母のことをみんなが「絶世の美女」と称賛するたびに、俺はその言葉に困惑していた。


「俺には……理解できないな」


俺の周りにある全てが、少しずつ、俺が知っている世界とはずれている。

この世界は、俺が思っていたよりも、ずっと異質で、そして恐ろしい場所だった。


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