エピローグ
世界樹の島へ向かうため、一行は小舟に揺られている。
近づく、別れの時。
ラツェエルは舳先に座って、ただただ無言だ。涙をこらえて、泣きたいのを我慢して、泣き顔を見られないように、黙っているしかない。
エンリケたちには、既に連絡を終えている。彼らも島に向かっているとのこと。じきに合流できるだろう。
私は、指導者としてちゃんとできるだろうか。
これからは、一人なんだ。仲間なんて、いないんだ。
突然、不安になる。
頼れる人間など、いないのだ。
どうすればいいのだろう。誰かになにかを聞きたい時、どうすれば? わからないことがあった時、師の代わりにエトヴァスが教えてくれた。ヴァリは、感応が利くから魔物のことを丁寧に知らせてくれた。
リディアは、弓が得意だから狩りのことを。ガディは力仕事をなんでもやってくれた。 でもこれからはなにもわからない。
一人でなんでもやらなくちゃいけない。誰にも頼れない。知らない、ということを知らせられない。なぜなら指導者は、なんでも知ってなくちゃならないから。
指導者が無知だと、皆が不安になってしまうから。
そんな誰にも頼れなくて不安な夜、誰が私を抱き締めてくれるの?
ジェラール、私はそんな時、どうすればいいの?
あなたが恋しくて仕方ない時、私どうすればいいの?
涙がこぼれ出る。
慌ててそれを拭って、知らないふりをした。
残酷にも時はすぐに来て、小舟は島に着いた。
森の中心に、太いなにかが屹立していた。
「あれが世界樹よ」
ラツェエルはそれを見上げて言った。
「行ってみましょ」
森のあちこちが、焼かれていた。
「それでも、樹は思ったより無事だわ」
鳥が鳴いている。光が、差す。
少し行くと、太い太い、見上げんばかりの樹がそこにあった。
「おお……」
エトヴァスが、思わず声を上げる。
「これが伝説の世界樹か」
焼け落ち、無残な姿を見せているとはいえ、内部に人が住めたほどの大木である。その圧倒的な威厳は、未だ健在であった。
「幹は落ちてしまったけれど、根は生きているわ。ここからまた辛抱強く育てれば、大丈夫ね」
世界樹にやさしく語りかけるラツェエルを見て、ああ、この女は遠くへ行ってしまうのだと、ジェラールは痛感する。もう、俺の手の届かない所へ行ってしまうのだと。
「では、そろそろ行こうか」
エトヴァスがそう言うと、いよいよ別れの時である。
仲間たちは小舟のある浜辺まで歩いていき、そこでラツェエルに別れを告げた。
リディアとラツェエルは抱き合った。
「いろいろひどいこと言っちゃって、ごめん」
「ううん、私、女のきょうだいいなかったら、楽しかった。またね」
ヴァリはラツェエルと抱き合って、
「リディアと仲良くね」
「ありがとうございます」
と言い合った。
エトヴァスはラツェエルの頬にくちづけしながら、
「あんたの術は勉強になったよ。時々ここに来て、勉強させてもらうよ」
「待ってるわ。あなたは師に似てたから、色々教えてもらえて、助かった」
ガディとラツェエルはがっちりと手を握り合った。
「あんたがいると心強かったぜ。いろいろとな」
「あなたといると楽しかったわ。ジェラールをよろしくね」
「まかせてくれよ」
そして仲間たちは小舟に乗り、ジェラールとラツェエルの別れを待った。
二人は向かい合った。
泣いちゃいけない、泣いたらいけない、彼が最後に見る私の顔が、泣き顔であってはいけない。
「……元気でいろよ」
「うん」
「たまには、手紙を書くからな」
「うん」
言葉がこれ以上、出てこない。
ジェラールはぎこちなく近づいて、そっとラツェエルを抱き締めて、こらえきれなくなって力をこめて、さらにぎゅっと力を入れた。
息ができなくなって、ラツェエルは声も出ない。
「……」
いけない。
ぽろり、とうとう涙が出た。
「ラツェ……」
彼がなにか言おうとする前に、ラツェエルはジェラールを押しのけた。
「行って」
「――」
「行って。私があなたを引き止めてしまう前に」
泣き顔を見られないように、顔をそむけた。それでも、ジェラールには彼女が泣いているのがわかった。
「――」
「お願い」
ジェラールはもうなにも言えなくなって、そのまま黙って仲間たちの待つ小舟に向かった。
振り向くことは、しなかった。
櫂を漕ぐ音を聞きながら、ラツェエルは一人泣いていた。その音が遠ざかっていく。
ああ、行ってしまった。あのひとが行ってしまった。私を置いて、行ってしまった。
私はひとりだ。
愛している、愛しているのに、私はひとりだ。
そこにしゃがみこんで、泣き続けた。激しく嗚咽した。
どれだけ泣いたかわからないくらい時間が経った頃、突然ひどい吐き気がして、波打ち際に行って吐いた。めまいもする。
錯乱した。
そして、考えた。
最後にあれが来たのは、いつだ。
「……」
答えが出た時には、遅かった。
顔を上げた。
世界樹の島が遠ざかり、やがて見えなくなっていく。それでも目が離せなくて、ジェラールは自分の未練がましさに嫌気が差していた。
「元気出せよ」
櫂を漕ぎながら、ガディが声をかける。
ああ、と気のない返事をして、肘をつく。やる気が出ない。これから、なにを目的に生きていけばいいのか。なんのためにやっていけばいいのか、わからない。
愛する女を失った。
それが、こんなにも痛手だとは、思わなかった。
生きていく世界が違うから、離れる。
それでいいのか。そんなことでいいのか。
俺とラツェエルは、かつて一度離れ離れだった。
それは俺が旅人で、あいつが蕾売りだったからだ。でもそれには事情があった。あいつは呪われていて、旅には出られなかった。もしそうでなかったら、一緒にいられただろう。 ――では今は?
彼女は最後の賢者で、俺が旅人で、生きる世界が違うから、それで離れ離れになるのは、仕方のないことなのか? 自然なことなのだろうか?
胸にぽっかりと、穴が空いたようだ。
俺があいつの側にいて、あいつを支えるんじゃだめなのか?
ジェラールは顔を上げた
「ガディ」
「あん?」
「戻ってくれ」
「なん、なんだと?」
「戻ってくれ」
「なにい?」
「早く」
ガディは慌てて進路を変更した。
ラツェエル、俺は考え違いをしていた。どんなに生きる世界が違っていても、俺はお前の側にいる。なぜなら、俺はお前を愛しているから。もう失いたくないから。
小舟は進む方向を変え、潮に乗ってぐんぐん進んでいった。
かすんでいった島の影がまた見え始め、大きくなっていく。
どこにいるだろう。まだあそこにいるだろうか。
ああ、いた。
浅瀬に着いて、ジェラールはもどかしくてそこから飛び降りた。
「ラツェエル!」
そして、浜でぼーっと立ち尽くしているラツェエルの元へ走り寄った。
彼女はそこにいて、驚いてジェラールを振り返った。
「ラツェエル……」
「ジェラール……」
世界樹の樹の下で、二人は見つめ合った。
「俺……」
「私……」
光が、燦々と降り注いでいる。
夏が来ようとしていた。
了
世界樹の樹の下で 青雨 @Blue_Rain
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