第六章 5

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 レク=ルニエダのはるか上空には、エトヴァスとラツェエルの二人分の術を使って行かなければならなかった。

 魔女テオナッハの館は、雲の上、太陽も近いかと思われるほどの空の上にあった。

 それはごつごつとした幾重にも重なった岩でできた要塞、空に浮かぶ城であった。

「あれが……魔女の館……」

 どうやら入り口らしき場所に降り立つと、そこは楕円状になっていて、そこから歩いて見上げんばかりの扉がついている。鍵は、かかっていない。

 なかには、扉が無数にあった。大きな扉、小さな扉、赤いもの、青いもの、新しいもの、壊れかけたもの、木製の扉、鋼鉄の扉、白いもの、紫のもの、緑に黄色に鉄に銅、およそ考えられる限りの様々なものが一緒くたになって、そこに点在している。

「これは一体何事じゃ」

「これが、魔女の迷宮なんだわ」

 ラツェエルはため息のように言葉を吐いた。

「侵入者を阻む魔女の迷宮……」

「これは、神経を削られますね」

 ヴァリが息をごくりと飲みながら覚悟を決めたように言った。

「一つ一つこなしていくのには、相当な時間がかかります」

「生きて出られるかしら」

「腕が鳴るぜ」

 扉の一つを恐る恐る開けて入ると、そこには別世界が広がっていた。

 どしん、どしんと歩くその足音を鳴らして、巨人が闊歩していた。

「なんだなんだ」

「巨人の国だ」

「踏み殺されるわ」

「早く逃げるんだ」

「でもどうやって」

「別の扉を探すんじゃ」

 ずしん、ずしんという足音と巨大な足に踏まれそうになり、なんとかそれから逃れると、森に出た。樹々を抜けると、小さな扉があった。

「これか?」

「開けろ」

 扉を開けると、また無数の扉があった。

「戻って……きたのか?」

「さっきの扉だわ」

 リディアが振り返って、開いた扉を見た。

「確かですか」

「ええ。さっきのは、紫だった。これも紫よ」

「では、ここに印をつけておきましょう。もうここを開けてしまわないように」

 ヴァリは荷物のなかから白墨を出して、扉に印をつけた。

 ある扉は小人の世界で、彼らは捕えられて縛られ、あと一歩のところで縛り首にされるところだった。ある扉は時間が逆行していて、エトヴァスが若者に、ヴァリが老人になって、散々な目に遭った。ある扉では夏毛のうさぎが春草を食み、ある扉では皺のある少女が甘いお菓子を口にしていた。

 彼らは辛抱強く扉一つ一つに印をつけていき、そうして迷宮を進んでいった。

 魔物は時々やってきて、一行の神経を逆撫でするかのように襲ってきた。

 それらをやり過ごすと、また扉の数々をこなしていった。そうして日々が過ぎていき、時間を忘れて印をつけた。

 そうして無数にも思われた扉の数々も数が減っていき、とうとうそれが最後の一つとなった時、ラツェエルはごくりと唾を飲んでそっと扉に手をかけた。

 なかに入ると、一本道だった。松明だけが壁にかけられていて、薄暗く道を照らしている。

 石畳を歩く音だけが、不気味に響く。

 突き当たると、階段があった。そこを上ると、光が差している。

「――」

 まぶしい――

 上った先は、屋外だった。城の外。半円状になったホールの先に、一人の女がいた。

 その女はこちらに背を向けて、燃える髪を風にひらめかせて空を見ていた。

 テオマッハ――

 その姿を、ラツェエルは忘れることができない。

 あの日の高笑い。自分にかけられた忌まわしい呪い。殺された同志たち。惨殺された師。 一同はゆっくりと女の側に歩み寄った。

「それ以上近寄るな」

 空を見上げたまま、女は低く言った。

 ひらり、燃える髪が、こちらを向いた際に揺れた。

「それ以上近寄るな」

 テオマッハはもう一度言うと、身体ごとラツェエルの方に向けて、それからにやりと笑った。

「小娘、呪いが解けたか。何者かがあの像を破壊したと見える。それも一興よ。最後の賢者を、この手でゆっくりじっくりと殺してくれようぞ」

「なぜ……なぜあなたはそんなに賢者を、魔導を憎むの」

「わらわは魔導の最高の使い手ぞ。わらわこそが魔導の最高峰。魔導はわらわのもの、わらわこそが魔導なのじゃ。魔導はわらわのものでなくてはならぬ。わらわの他に、魔導の使い手などいらぬ」

「世界のあちこちで、人間を狂わせて殺させたのもあなたね」

「人間など、取るに足らぬ存在。虫にも劣る卑小なもの。殺し合えばよいのじゃ。哀れで愚かなものゆえ、声を聞いて助けてやったまで。奴らの欲望を聞いて、そうさせたまでのこと」

「なんて奴……」

 聞いていたリディアが、思わず歯噛みした。

「小娘、最後の賢者よ。来なや、捻り殺してくれよう」

 バッ、テオマッハの髪が、一層激しく燃えた。大きく広げた魔女の両手から炎が燃え広がり、一同に襲いかかった。

「!」

 ラツェエルは横に飛んでそれをよけ、素早く呪文を詠唱して右手で魔女を指し示して大きく振り払った。

 カッ、という音と共に、天空から雷がテオマッハに落ちた。

「小賢しい!」

 魔女は手を一振りしてそれをよけ、大きく飛んだ。

「エトヴァス、加勢できないの?」

「とんでもない、儂らにできることはなにもない。みんな、隅に移動するのじゃ。障壁を張る。ラツェエルの邪魔をしてはいかん」

 彼らは端に移って、息を飲んで戦いの行く末を見守った。

 ラツェエル、死ぬな。

 傷だらけになって魔女と戦うラツェエルを見ながら、ジェラールはそれだけを思っていた。

 死ぬな。お前は生きて、賢者と世界樹を復興するんだ。そのために生きるんだろ。

 バン! と激しく床に叩きつけられるなにかの音がして顔を上げると、ラツェエルが倒れたところであった。ジェラールはそれを助け起こそうとして、思いとどまった。

 ラツェエルは唇の端から血を流して起き上がると、よろよろと立ち上がった。

「ふふふふふ。どうした小娘。その程度か。賢者の名が泣くぞえ」

「あなたが生きている限り私も死なないわ」

「そう来なくてはな」

 魔女の全身から、水の渦が巻き起こった。ラツェエルがそれに呑まれていって、溺れかけたと思えば、そこから出てきて氷の牙でテオマッハを串刺しにしようと襲いかかった。 両者の術は拮抗して、なかなか勝負がつかなかった。

 仲間たちは固唾を飲んで、戦いの行方をただただ見ているしかなかった。

「エトヴァス、これ、どうなるんだ? 俺にはどっちも互角にしか見えねえ」

 ガディがはらはらして傍らにいるエトヴァスに聞くと、老人は難しい顔をしてこたえた。「いや……この戦い、ラツェエルは勝てん」

「なんだと……」

「あの子はまだ若い。絶対的な経験が、足りん。対してあの魔女は、大口を叩くだけのことはある。何年生きているのかは知らんが、術の奥行きというものが違う。あれが相手ではラツェエルは勝てん」

 激しい音がしてそれにつられて顔を向けると、まさしくラツェエルが大きな術に跳ね飛ばされてホールの反対側に吹き飛ばされたところであった。

 魔女は今や上空に飛び上がり、高らかに笑ってラツェエルを見下げてこう言った。

「最後の賢者、いたいけな小娘よ。わらわの手にかかって死ぬるがよい。それこそが名誉、栄えある死と知るがよい」

 カッ――

 魔女の全身が、激しく輝き始めた。

「う……」

 ラツェエルは小さく呻いて、どうにか身体を動かそうとわずかにもがいた。しかし身体が痛くて、うまく動かない。

「……」

 目の前に、なにか青いものが光っている。

 なんだろう――

 きれい……きらきらきらきら、光ってる。

 それは、師があの日くれた、あの青い石だった。跳ね飛ばされた衝撃で、胸から出たと見える。その石が、わずかに明滅しているのである。

 ラツェエルはその輝きを、じっと見ていた。

 私、もうすぐ死ぬんだ。

 きれい……きれいなものを見ながら、死ぬんだ。ジェラール……ジェラールだと思って持つって決めたこの石。この石って、なんだっけ。なんて言われて、渡されたんだっけ。 ぼーっとする頭で考える。

 上空では、魔女の高らかな詠唱が聞こえてくる。

 持っていなさい。いつか必ず、役に立つから。

 役に……

 はっとした。

 最後の力を振り絞って、立ち上がった。そして自分も呪文を詠唱して、魔女の元へ飛んだ。

「!?」

 テオマッハに身体ごと体当たりして、胸元の石を握り締める。

 勝てないかもしれない。でも、負けない。一人では死なない。道連れにする!

「……ラツェエル」

 それを見ていたジェラールは、なにかを感じ取った。

 障壁のなかで、彼はエトヴァスにせまった。

「エトヴァス」

「な、なんじゃい」

 ジェラールはエトヴァスの肩を掴んで、一気に言った。

「俺をあそこまで飛ばしてくれ。頼む」

「な、なんじゃと」

「早く」

 上空で、一層光が激しくなってきた。それにつれて、青い光が増した。ジェラールはそれを見て、顔色を変えた。

「急げ」

 ラツェエルは早口で呪文を詠唱すると、その完成を待った。

 ヴ……ン

 なにか、風を切るような音がして、振り向くと彼がいた。

「――」

「いかせないぞ」

 ジェラールはそう言って、絶句するラツェエルを無理矢理抱き締めた。

「お前、一人で逝くつもりだな」

「そんなことない……そんな……」

「嘘だ」

 彼女の言葉を遮って、ジェラールは断言した。

「俺にはわかる。お前は死ぬつもりだ。魔女と心中するつもりだ。勝てない代わりに、一緒に死ぬつもりなんだ」

 ぎゅうう、と自分を抱く腕に力が籠もって、反論ができない。

「ちが……」

「なにが違う。違わない。お前が生きて世界のどこかにいるのなら、離れ離れでもいいと思っていた。生きているならだ。だが死ぬのは許さない。お前はおれのものだ。死ぬのは俺が許さない」

「離し……」

「離さない。お前が死ぬなら、おれもいく」

 呪文が完成して、術が成っていく。青い石が、輝きを増す。魔女が悲鳴を上げた。

 同時に、ジェラールの赤い石も激しく明滅していた。ラツェエルは、それを見た。

「一緒にいこう」

「ジェラール……」

 ラツェエルのすみれ色の瞳が、覚悟を決めた。

 二人は手を握り合った。

 青い石と赤い石が、明滅を繰り返す。

 魔女がそれに耐えられないように、顔を押さえた。

 ぎゃああああ、と悲鳴が上がった。

 天よ! 

 今、二つの力が顕現する。

 照覧あれ、紫の力を!

 二人の胸元から、青い渦と赤い渦が巻き起こった。それは螺旋になって一つとなり、混じり合ってそのまま雲を割って天空へ吸い込まれていった。

 仲間たちはそのあまりのまばゆさに目を開けていられず、両目を覆った。

 足場が崩れていく。

「いかん……! 脱出じゃ」

 仲間たちはその場から逃げ出した。

 魔女の館は崩壊した。

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