第六章 3

エトヴァスは、なんてことはないふつうの商家に生まれ育った。

 しかし商人の才能はなく、また本人も商人になるつもりはなく、商売にかけらほどの興味もなかった。

 十の歳に、魔導師になりたい、弟子入りしたいと両親に頼み、隣国の魔導師の家に住み込みで働きに出た。弟子とは名ばかりの、ただの下働きであった。

 朝、五の刻には起きて家中の床を磨いた。鶏の卵を取って鶏小屋を掃除し、家人の朝食を作り、書斎の掃除をし、食器を洗って、それがすめば洗濯をした。洗濯物を干して一息入れれば、今度は昼食の準備である。ここでやっと自分も食べ物にありつくことができる。 そして食器を片づけ、敷き布を交換し、洗濯物を取り入れて、風呂を沸かして、夕食を作る。その残り物を食べて、残り湯に入る。浴槽の掃除をして、夜中には眠る。

 そんな毎日を、三年は過ごしていただろうか。

 文句も言わず、そんな日々を疑問にも思わず、黙々とやり過ごすエトヴァスを見ていた師匠がある日言った。

「どうやらお前には魔導に一番必要な忍耐力というものがあるようだな。そんなに魔導を習いたいというのなら、よろしい。教えてあげよう」

 驚きというより他になかった。

 てっきり、自分には素質がないものだとばかり思っていた。

 だから、教えてもらえないのだと思っていた。

 しかし師は、そんなエトヴァスに丁寧に魔導を基本から教えていった。それらのことを、まるで半紙が水を吸収するように急速に、エトヴァスは覚えていった。

 魔導の仕組みは複雑で難解で込み入ったものであったが、同時にとても魅力のある、理解するとまた面白いものでもあった。エトヴァスはどんどん魔導の世界に魅了されていった。

 師には、娘が一人いた。

 透き通る茶色の髪が美しい、リッツェという名のエトヴァスより一つ年下の娘だった。

 エトヴァスは忙しい修行の合間に、時々リッツェと話すことがあった。師は彼女と話すことについてはなにも言わなかったが、エトヴァスはリッツェと距離を置くよう心がけていた。それは成長するにつれ、益々彼の心のなかで大きくなっていく事柄でもあった。

 なんといっても彼は弟子で、リッツェは師の娘、立場が違いすぎた。

 しかしそんなエトヴァスの気持ちを知ってか知らずか、リッツェは彼に親しげに話しかけてきた。またエトヴァスの方も彼女のことは憎からず思っていたので、そうされれば笑顔でこたえた。そうして、二人は親密になっていった。

 ある日、エトヴァスはリッツェの誕生日に、美しい髪によく合うようにと髪に挿す珊瑚の髪飾りを贈った。なんのことはない、いつもよくしてくれる、ちょっとした礼のつもりだった。

 リッツェはそれを殊の外喜んで、いつも髪に挿した。

 二人はよく、本の貸し借りをした。エトヴァスは魔導の本をよく読んだが、また他の、ふつうの本もよく読んだ。リッツェも読書家であったので、互いに会うと本の話で話が弾んだ。

 ある日、リッツェはエトヴァスに一冊の本を貸して、こう言った。

「私、本の最後の頁をめくるのが一番好き。そうするとわくわくして、どきどきが止まらないの。そうしてみて。きっと、胸が高鳴るから」

 意味ありげに言うと、リッツェは階段を上っていった。不思議に思って手渡された本の最後の頁をめくると、なにかが記されていた。

 『明日星星見が丘のてっぺんで 八の刻に待つ』

 慌てて本を閉じて、辺りを見渡した。言葉で話しては、いつ家人に聞かれるかわかったものではない。

 きっと、胸が高鳴るから。

 リッツェの言葉が蘇る。

 胸がどきどきした。

 行かなければ。必ず、行かなければ。エトヴァスはそう思って、明日を心待ちにした。

 翌日七の刻を少し過ぎて家事をすべてすませてしまうと、エトヴァスは家をそっと抜け出した。そして森を行くと、星見が丘を目指して一気に走った。

 夏の夜、虫が鳴いていて、森は暗い。足元がおぼつかなくて、何度も転びかけた。

 彼女が待っている。

 行かなければ。

 そう思うと、知らない内に心が急いた。

 そのせいなのだろう。

 そこにあった石に、気がつかなかった。そしてそれにけつまづいて頭を打ち、エトヴァスはそこで気絶してしまったのだ。

 気がついた時には、医者に運ばれていた。病院にいたのだ。

「ああ、気がついたね。三日も気を失っていたんだよ」

「三日……!?」

 彼は起き上がろうとして、頭の激痛に顔を顰めた。

「急に起き上がってはだめだ。ゆっくり」

「そんな、だめです。お嬢様が、お嬢様が」

「家はどこだね。連絡しなくては」

「お嬢様が待っているんです」

 錯乱するエトヴァスの口から師の家の住所をようやく聞き出し、そこへ連絡が行った頃には、時は既に遅し、リッツェは傷心のあまり部屋に籠り、父の勧める結婚を一方的に決めてしまった後であったのである。

 そしてエトヴァスが医者から帰ってくる前に、リッツェは嫁ぎ先に一足先に行ってしまい彼と顔を合わせることはなかった。

 六十二になった今でも思う、あの夜自分と会って、彼女はなにを話したかったのだろう、なにをしたかったのだろうと。

 エトヴァスは大図書館を出て、ふうとため息をついた。あれからいくつもの旅を重ねてきたが、この、魔女を倒すという旅こそが、彼の人生において最後の旅になるかもしれない。それもいいかもしれなかった。

 時々、リッツェは今なにをしているのだろうとふと思うことがある。孫くらい、生まれている年齢だろう。

 あの日、あの丘にたどり着いていたら。

 あの時、彼女に会えていたら。

 それは、自分の孫であったであろうか。

 むこうからやってきた老婦人と行き会って、肩と肩がぶつかった。

「これは失礼」

「こちらこそ」

 その老婦人の髪に珊瑚の髪飾りが挿してあるのにも気がつかず、エトヴァスは宿に戻っていった。

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