第五章 3

ヴァリは貴族が嫌いである。

 レト=ミュリエルの男爵の家に、彼は生まれた。一人っ子だった。

 幼い頃から物静かで、本が好きな子供だった。

 父は貴族の子息のたしなみとして、一通りのことを彼に仕込んだ。剣、社交、乗馬、語学、それらのことを、ヴァリはそつなくこなした。なかでも剣技は、ずはぬけて成績がよかった。

 しかし、彼はそれに関心を示さなかった。

 剣の教師たちは、口を揃えて父にこう言った。

 筋もよい、型もきれい、しかし男爵、坊ちゃまは、勝つということに興味を持たれていらっしゃらないのです、と。剣を放りだし、寝そべって本に夢中になっている息子を見て、父は早い段階でこの息子に後を継がせることを諦め、なにか別のことをさせようと思ったのかもしれない。

 後になって、ヴァリが聖職者になりたいと言い出した時、それが司祭ではなく結婚できる僧侶であったことは、愛溢れる息子であるならば当然のことであると父は快く承諾したのもうなづけることであっただろう。

 ヴァリが六歳の時、夏の休みを使って親戚が男爵家に集まって泊まりに来たことがあった。大勢のいとこたちもやってきて、賑々しいものとなった。が、ヴァリにとっては、いつもと変わらず本を読むだけの生活である。

「ヴァリ、どこにいるの? 遊びましょうよ」

 従姉妹のエリザベスがヴァリを探しに書斎にやってきた。

「リジーか。来たのかい」

 書斎の二階で本を読んでいたヴァリは、庭が騒がしくなっていたのでそろそろ親戚一同がやってきた頃合いなのかと思っていた時であった。

「あなたったらいつも読書なのね。たまには庭で遊びましょうよ。ヨーゼフたちも来ているわ」

「あいつらうるさいから嫌いだ」

「そうね。いつも乱暴で、私も好きじゃないわ。私と一緒にお人形で遊びましょうよ」

「君と? ……少しならいいよ」

 従姉妹のリジーはヴァリに似て、金髪だ。お人形遊びとは趣味ではないが、乱暴者たちと剣術ごっこをするよりはましだ。ヴァリは起き上がって、本にしおりを挟んだ。そしてリジーと共に廊下を歩いて、自分の部屋に向かった。

 途中、使用人と行き会って、

「飲み物を持ってきてくれる? ふたり分。冷たくして」

 と丁重に頼んだ。ヴァリは、こういう時彼らにも丁寧にするよう心がけている。使用人とて、人間だ。立場が違うだけで、自分たちになんら差はないと思っている。

 部屋でリジーと遊んでいる内に、侍女が飲み物を持ってきてくれた。礼を言って受け取ろうとすると、それを横から乱暴にもぎ取る手があった。

「よう、ヴァリ。女の子とお人形遊びかよ。このおとこおんな」

 ヴァリの顔がそれを聞いて、険しくなった。

「ヨーゼフ、なにしにきた」

 ごくごくと飲み物を一気に飲んで、従兄弟が意地悪気に眉を釣り上げた。両隣には、別の従兄弟を二人従えている。

「お前、剣の稽古してないんだってな。弱虫。こわいんだろ」

「誰が入っていいと言った。ここは僕の部屋だ。出ていけ」

「リジー、こんな奴と遊んでるとなにされるかわかんないぜ。俺と来いよ」

 リジーが怯えて、ヴァリの陰に隠れた。

「出ていけったら」

「はいはい、ここはお前の屋敷だからな。出て行ってやるよ」

 ふふん、とヴァリを鼻で嗤って、従兄弟たちは出ていった。

「なにがしたかったんだ、あいつら」

「いやがらせよ。あなたの家の方が、お金持ちだから」

「お金なんて、なくなったらなんににもならない」

 それに比べて、知識は目には見えないが、己に蓄えることができる一生の宝だ。なぜひとはそこを見誤って、金などという下らないものを拝んだりするのだろう。

 従兄弟たちだって、自分の立場を誤解している。

 自分たちを特権階級だと思って下の立場の者を見下し、子供だというのに使用人を顎でこき使う。彼らが掃除するそばから床を平気で汚し、食事を食べ散らかし、わがまま放題を言う。

 ぼっちゃま、お飲み物はどうしますか、と聞かれ、使用人にもういいよと告げて、ヴァリはリジーと書斎に向かった。

「君にこの本をあげるよ」

「なんか、難しそうな本」

「表紙は難しそうだけど、子供でも読める面白い本だよ」

 そうして、二人で読書に耽った。それがすむと、頼まれて彼女の髪を編んだ。

「私の髪、いつも褒められるの」

「確かに君の髪はきれいだね」

「あなたの髪も、まっすぐできれい。私の髪、くるくるでいつも癖っ毛で、困っちゃう」「伸ばせばいいよ。伸びればもっときれいになるよ」

 そうね、そうする、と言っていると、食事の時間になった。

 そうして夏の日々は過ぎていった。

 あるけだるい午後の日、いつものようにヴァリが書斎で本を読んでいると、庭がいつもより騒がしい。ごうごうと火が燃える音、大人が叫ぶ声、物々しい物音がするので、何事かと思い出て行ってみると、なんとリジーの髪に火がついて、彼女が泣き叫びながら走り回っているではないか。その後ろでは、ヨーゼフと取り巻きの従兄弟がそれを見てげらげらと腹をかかえて笑っている。彼らが火をつけたことは、間違えようもない事実であった。

 大人が慌てて彼女に水をかけて事なきを得たが、かわいそうにリジーの髪は短くなり、焦げてちりちりになってしまった。執事がきれいに切り揃えてやったが、見るも無残な短い有り様は、かつての長い巻き毛の見る影もない。

 ヴァリはリジーの部屋に行って、扉を何度もノックした。

「リジー?」

 扉のむこうからは、すすり泣く声が聞こえる。

「リジー? ……いるの? 大丈夫?」

 声は、こたえない。

「リジー……」

 ヴァリはノックするのをやめて、拳を握った。

 ヴァリの緑の目が、滅多に燃えない怒りというものに、光っていた。

 翌朝運動着に着替えたヴァリは、鍛錬室に向かった。

 そしてそこで実技用の剣で遊んでいるヨーゼフと取り巻きの従兄弟たちを見つけると、壁から剣を取り出してヨーゼフに歩み寄った。

 取り巻きと遊んでいたヨーゼフは初め、何事かとそれを見守っていた。

「僕と勝負しろ」

 ヴァリが真面目な面持ちでそれを言うと、ヨーゼフは取り巻きと顔を見合わせ、

「おもしれえ。おとこおんなが俺と勝負だってよ」

 と笑い合い、

「いいぜ。女みたいに泣かしてやらあ」

 と剣を取った。取り巻きたちがさっとその場を離れ、二人は鍛錬室の真ん中で向かい合った。そして一礼して、構えた。

 ヴァリはするどくヨーゼフを睨んで、一歩も退く姿勢を取らなかった。その殺気に、最初はにやにやと笑って見ていた取り巻きたちも、次第にその笑みを消して真剣に勝負を見守り始めた。

 対峙するヨーゼフも、初めの方こそ余裕ぶっていたものの、ヴァリの気迫に押されて段々とゆとりをなくして、脂汗をその顔に浮かせていった。

 二人の剣の切っ先が、わずかに触れ合った。

 びくり、ヨーゼフが震えた。

 ヴァリはそれを、見逃さなかった。

 彼は容易にヨーゼフの剣を手元から弾いた。

「ひいっ」

 ヨーゼフはそれで、無様に尻餅をついた。カチャン、と剣が音をたてて落ちて、勝負はそれでついたかのように見えた。

 しかし、そうはいかなかった。

「拾え」

 ヴァリは冷徹に言い放った。

「拾え」

 彼は従兄弟の喉元に剣を突きつけてそう言うと、炎に映えるエメラルドのような冷たい瞳でそう言った。

「拾え」

 ひっ、ヨーゼフはそれに気圧されて、床を這って夢中で剣を拾いに行った。そして、慌てて剣を構えた。ヴァリはその瞬間に、もう一度剣を弾いた。

「拾え」

 彼はもう一度言った。

「拾え」

 ヨーゼフのたるんだ顎に剣の切っ先をつけてそう言うと、彼は言った。従兄弟が震えながら剣を拾いに行くと、ヴァリはそれをじっと待っていた。

 ヨーゼフは仕方なく剣を構えて、またヴァリと対峙した。今度は負けないように、本気で行こうと思った。しかしヴァリの刃風は鋭く、容赦がなかった。右に行けば彼は左から突っ込み、左から突けば右によけ、下に払えば飛んで切り払う、あの本にしか興味のない、女みたいな柔和な従兄弟が、こんな剣技の持ち主だったとは聞いていない。まさか、双子の兄か弟でもいて、そいつと入れ代わったのか、そうに違いないと思わせるほど、彼は別人であった。

 またも剣を弾かれて、ヨーゼフの頬が浅く切られた。

「拾え」

 目の前に剣が突きつけられて、目の玉が危うい。

「拾え」

 その冷徹な声すら、ヴァリのものとは思えぬ。

 ヨーゼフは転げるように剣を拾ってきて、震える手で構えた。そしてうわああああと叫びながら無茶苦茶に剣を振り回して、ヴァリに突進していった。ヴァリはそれを楽々とよけて、それから彼を後ろから蹴り飛ばし、股間に剣を当ててもう一度言った。

「拾え」

 彼を見下ろす、その目。

 非情極まる、燃える緑の瞳。

「あ……あ」

 じわり、股間が熱くなるのを感じて、ヨーゼフは絶句していた。気がつくと、失禁していた。

 それを見届けて、ヴァリはふん、と一言、剣を放り投げ、鍛錬室を出ていった。

 その日から、貴族が嫌いになった。


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