第四章 4

「ジェラール!」

 翌日、大広間で女王は彼を呼び出して怒鳴り散らした。

「なぜゆうべ寝室に来なかった。わらわは待っていたのだぞ」

「誰が行くと言った。俺は行くと言った覚えはない」

 そのつれない言葉に、女王は扇子を血が出るまで握った。

 怒りの反動は、その晩三人の男と同時にまぐわうということで紛らわされた。しかし、どうにも気持ちは晴れなかった。

 翌日は、娘の生き血を浴びる日であった。五日に一度のその日を、女王は待ちわびていた。

 ジェラールは同室の男に、

「女王に生き血を浴びるよう言ったあのお方って、一体誰なんだ」

 と尋ねたが、

「さあな。どのみち、ろくな人間じゃないだろうな」

 としか返ってこなかった。

 女王本人に聞くしかないか。しかし、どうやって? 近づくだけでも不愉快な女だ。

 その日もジェラールは部屋の隅に立って、目立たないように一日をやり過ごしていた。

「おい」

 と、どこからか声がして、初めは空耳かと無視していたら、

「おいったら」

 とまたどこからか声がした。

「?」

「こっちこっち」

 と声が聞こえてきて、きょろきょろと見回すと、近くの大きな壺の影に屈んでいる下男がいた。

「俺だよ」

 ガディだった。

「お前……なにやってる」

 ひそひそ声で囁いていると、彼はすり足でこっちにやってきた。

「つてを頼ってやっと潜入できたんだ。なんとかお前を連れ出せないかと思ってさ。ラツェエルは相変わらずあの屋敷から出られないし、城下は葬式みたいに暗くなってるし、この国は今やばいぜ」

「ああ、なんとかしなくちゃならん」

 と、そこへ、

「ジェラール、なにをしておる。こちらへ来い」

 と女王の声が飛んできた。

「おっといけねえ。俺は行くぜ」

 ガディはまた壺の影に隠れた。ジェラールは仏頂面で女王の元へ行った。

「もそっと近くへ来や」

 ジェラールは一歩も動かない。

「まあよい。今宵はわらわの元へ来るのであろうな」

「……」

「だんまりか。男は寡黙でなくてはならぬ。べらべらと話す男はわらわは好かぬ。今宵、参れ」

「……」

「参るのであろうな」

「ご免だ」

 わ、ばか。聞いていたガディは目を覆わんばかりになった。適当に答えときゃいいのに、馬鹿正直なんだから。

「なにゆえじゃ」

「言わん」

「申せ」

「言わん」

「申せ」

「言わん」

 女王は愉快そうに笑った。

「のうジェラール。わらわはこの国の女王、首長ぞ。その首長にむかってその利きようはなにごとじゃ。一国の主に対して、もそっと敬意というものを払ったらどうじゃ」

「払う価値があるものには払う」

「なに」

「その価値がないものには払わん」

 ガディははらはらとしてそのやり取りを聞いている。大丈夫かなあいつ。首を刎ねられるぞ。

 女王の手が、怒りに震えている。

 女王は立ち上がった。

「もうよい。わらわは腹が減った」

 ぷい、と女王がむこうをむいてしまい、女官が慌てて食事の支度をする。ガディは額の冷汗を拭って、相棒の命が助かったことを喜んでいた。それでも、あんな態度じゃあいつはいつ殺されるかわかったもんじゃないなと思っていた。

 そうしてその日は過ぎた。

 次の日も、その次の日も、女王はジェラールに抱かれることはなかった。

 女王はいらいらとして、次第にジェラールの機嫌を取るようになっていった。

 自分になびかない小憎らしい男、誰もが跪く自分に反抗するこの男に抱かれたいと思っていることに、まだ気づいていなかった。

 そうこうする内に、四番目の月、銀朱の月となった。

「ジェラール、春だのう」

 そのたくましい厚い胸を惚れ惚れと見て、女王は言った。

「今宵その胸に抱かれてみたいものじゃ」

「金もらったってご免だね」

 それを聞いていた女王の側に侍っていた男たちは、小さく首を降る。あいつ、もったいないな。まったく、馬鹿だぜ。

 女王は気色ばんで、扇子をパン、と閉じた。

「ジェラール。わらわがいつまでも笑顔で黙っていると思うなよ。わらわはやるときはやるぞ」

「好きにしろ」

 ジェラールは吐き捨てるように言うと、そのまま部屋へ戻っていった。女王の罵詈雑言が、後ろから聞こえてきた。

 翌日は、五日に一度の生娘の生き血を浴びる日だった。相変わらずあのお方、というのが誰なのかを聞き出せないまま、日々は過ぎている。

 それにしても、そんなに十八の娘がいるわけでもなかろうに、どこから調達してくるのだろう、と柱の影から思っていると、娘が連れて来られて、いつものように首が刎ねられるのか、とうんざりしていると、

「お待ちください」

 とどこからか男の声がして、誰かが大広間に入ってきた。

「何者じゃ」

 女王の誰何の声がする。衛兵が槍を構える音、人と人が争う声がして、ジェラールは物影から出て行って、何事かとそれを見た。

「――」

 その男は、いつしか自分が侵入した屋敷のバルコニーで見た、ヴィクトリアの婚約者、アレクセイであった。

 では今日の娘というのは――

 ジェラールは広間の中心にいる娘を顧みた。

「ラツェエル……」

 薄衣を纏っているのはまぎれもなく、ラツェエルであった。

「アレクセイ様」

「ヴィクトリア」

「そなた、何者じゃ。誰の許しを得てここに入ってきた」

「申し上げます。わたくしはこれなる娘の婚約者でございます。この娘は先ごろ誘拐され、行方不明となっておりました。二週間、行方が知れなかったのでございます。両親もわたくしもわたくしの親も、誰もがその生存を絶望しておりました。それが、先日突然姿を現わしたのでございます。みなが涙して彼女を迎えました。ようやく、ようやく結ばれることができると喜んでいたのです。お願いでございます。彼女を、わたくしから奪わないでください」

 喉から血が迸るような叫びであった。

 女王は哄笑した。

「ほほほほほほ。それは仲睦まじいことよの。領民が幸せなのは国主の幸いじゃ。国主の幸いはこれまた領民の栄えと知れ」

「で、では」

「甘い。わらわは娘の生き血を浴びて永遠に美しくなるのじゃ。それがわらわの幸せなのじゃ」

 アレクセイは青くなった。

「そんな……」

「やれ」

 はっ、と兵士が剣を抜いた。

「アレクセイ様……!」

「ヴィクトリア」

「乙女の悲鳴は喉が潤うのう」

 ふふふふ、と女王が舌なめずりした時のことである。

「待て」

 天幕の後ろから、ジェラールが声をかけた。彼はつかつかと前に歩み寄った。

「その女は、生娘ではない。その女の名は、ヴィクトリアではない」

「なんじゃと……?」

「その女は、俺の恋人だ。その女の名前は、ラツェエル。ラツェエル・ヴラチスラバ。もう十九で、何度も俺に抱かれている。その女は、ヴィクトリアじゃない」

「な……に」

「左手の指輪の刻印が証拠だ。調べてみるがいい」

「そんなことはない。彼女はヴィクトリアだ。ヴィクトリア・バーホーデンだ。そうだよな、ヴィクトリア!」

「え、あ、わたくし……」

「違う。ラツェエルだ」

「ヴィクトリアだ。ヴィクトリアに間違いないんだ!」

「黙れ!」

 混乱するその場を、女王の怒鳴り声が収めた。

「ジェラール、そなたがわらわを拒んでいたのは、この女ゆえと申すか」

「……」

「正直に申せ」

「……そうだ」

「この女を、助けたいか」

「ああ」

 なんと正直な。あの頑固者がこの女のことになると、まるで別人じゃ。

 ぱちん、女王は扇子を閉じて一気に言った。

「ならばよい。こうしよう。今すぐわらわの寝室に行って、わらわを抱くがよい。さすればこの女を助けよう。どうじゃ」

「……」

 大広間の視線が、ジェラールに集中した。

 あいつ、どうするんだろう。どうするのかな。そんな思惑が、乱れ飛んだ。

 アレクセイの泣きそうな目が、ジェラールを見ている。ガディは固唾を飲んで、それを遠くから見ていた。

 短い間に、ジェラールは決断した。

「行く」

 女王はすっかり誇りを傷つけられて、それでも最後の誇りを保とうと顔をきっと高く上げて、猛々しくこう言った。

「いいのかえ。そなたは死ぬぞ」

「構わん」

「では来い。わらわの手を取れ」

 ヴィクトリアの目の前で、ジェラールは女王の手を取った。そして恭しく、その手にくちづけた。

 ヴィクトリアはそれを、震えながら見ていた。

 女王は高らかに笑いながら、広間を出ていった。

「……ないで」

「ヴィクトリア?」

「いかないでジェラール」

 ヴィクトリアは震える声で言った。彼女はもう一度、大きな声で叫んだ。

「行かないでジェラール」

 それを聞いて、ジェラールは振り返った。

「ラツェエル」

 彼は女王の手をふりほどいて、廊下を駆けた。

「行かないで」

 そして、広間に戻ってきてラツェエルを掻き抱いた。

「行かないで」

 大粒の涙が、そのすみれ色の瞳からこぼれている。

 ポツ、ポツ……と、それにつられるように、空から雨が降り出した。

「ラツェエル」

 万感の思いでラツェエルを抱き締めて、ジェラールはその名を呼んだ。

「思い出したの……思い出したの」

「忘れていたのか……」

「ヴィクトリアに、乗り移られていたの……」

「乗り移られていた?」

 横にいたアレクセイが、抱き合う二人を茫然と見ている。

「乗り移・・・・・・られて」

「彼女は死んだわ。冷たい湖の底に沈められて。殺されて」

「そ、そんな」

 アレクセイは顔面蒼白になって、よろよろと歩き出した。

「やっと会えたと思ったのに……もうどこにも行かないと……そう言ったのに……」

 そこへ、女王が戻ってきた。

「ジェラール! なにをしておる!」

 雨が、窓を激しく叩いている。雷が時折光った。

 ガシャン、と窓が割れて、石が投げ込まれた。

 それと同時に、女王を殺せ! という声が表から聞こえてきた。

 暴動!

 女王の身勝手な振る舞いに痺れを切らした国民が、とうとう蜂起したのである。窺い見ると、多くの人間がそれぞれ武器を持っていっせいに宮殿へ攻め込んでくるのが見て取れた。

「おい、逃げようぜ」

 ガディがジェラールの手を引っ張って、部屋の奥を指し示した。

「行こう」

 ジェラールはラツェエルの手を取って、走り出した。

 残されたアレクセイは、破られた窓から表に向かって叫んだ。

「ヴィクトリア……! 私を置いて行かないでくれ……一緒に連れて行ってくれ……ヴィクトリア……!」

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