第四章 3

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 リグ=ミルリル女王・スニェークはすらりとして柳のようにしなやかで細く、それでいて肉感的な身体を持っている。手足は長く、その白さたるや、雪、という名がぴったりだと専らの評判である。切れ長の紫の瞳は妖しげに潤みを帯び、形のよい唇は珊瑚のように赤い。まっすぐな金の髪は夜の闇にもきらりきらりと光り、それは腰にからまるほどである。

 彼女は生まれた時からその美しさを褒めそやされて育ち、身分のせいか誰もにちやほやされて成長した。謙虚、というものを学ぶ機会はなく、母を早くに亡くしたせいか、父王は彼女を甘やかしたい放題に扱った。

 結果、スニェークは我儘で傲慢で、人の気持ちを推し量るというとを知らない女になった。二十歳で隣国の王子にその美貌を見染められて嫁ぎ、その地でも我儘放題に日々を過ごした。

「そなたは美しい。あのサンカの山の雪のように」

 夫はそう言って彼女を賞賛した。彼女にとっての夫、それは、そのかけがえのない美の讃美者でしかなかった。夫は彼女の言うことならなんでも聞いた。二十人の乙女が半年かけて織り上げるという巨大な黄金の敷物、はるか遠くの大陸から運ばれた幻と言われる白玉の香炉、サンカの山にしか暮らさない美しい声で鳴く小鳥。彼女が一言言えば、願いは易々と叶った。

 二十五で、彼女は子供を身籠った。

 夫は彼女の両手を握って感動し、男の子でも女の子でも世継ぎにしよう、きっとそなたに似て美しい子供が生まれるであろうと憚ることなく言った。

 月日が満ち、時が過ぎて、臨月を迎えたスニェークは、自分がこの世で一番美しく、この世で一番貴重な存在であるということを信じて疑わないまま、産褥に就いた。

 しかし、輝くような彼女の人生に一点の翳りが生じた。

 死産だったのである。

 夫は嘆き悲しみ、数日部屋から出て来なかった。スニェークも悲嘆に暮れる日々を過ごした。しかし、彼女の立ち直りは早かった。

 生まれた子は、弱すぎた。弱過ぎて、この世で生きていくにふさわしい強さを持っていなかったから死んでしまったのだ。そんな子供は、わらわにはそぐわない。

 彼女は夫との生活を取り戻そうと、そしてより強い子供を授かろうと毎夜夫の元へ侍った。しかし、未だ死産から立ち直れない夫は彼女を頑なに拒んだ。

「そなたは、悲しくないのか。我々の子供が死んでしまったというのに、なにゆえ平気で夜私の元へやってくるのだ」

 夫はそう言って泣き暮らした。優しい心の持ち主であったのである。

 しかしそれはスニェークの目には軟弱に映った。なにゆえ、そのように嘆く。生まれる時に死んでしまうような子は、たとえ生まれてきても生きていくだけの強さなど持っておらぬ。そのような子供はわらわはいらぬ。

 夫婦の仲は急激に冷めていった。

 空虚な五年間が過ぎ、自分の讃美者だけに囲まれている生活は潤っていると信じていた。 ――夫に、愛人がいるとわかるまでは。

 それを知った時、スニェークは扇子を握っていた手から血が出るほど怒った。

「わらわという存在がいながら、他に女がいるというのか」

 そんなことは許されない。自分は唯一無二の存在、夫は、そんな自分と夫婦となれるだけでも幸せなのだ。生まれつき冷たい心しか持ち合わせていなかったスニェークは、夫が心の拠り所を必要としているということに気がついていなかった。

 間もなく、愛人が身籠ったという話が宮廷内に行き渡ると、彼女は身悶えして悔しがった。

 わらわですら、この世に絶対無比のわらわですら子供を産めなかったというのに、愛人が赤子を授かるというのか。

 そして産まれた子供が男子だということを聞くと、スニェークは気が狂うほど激怒した。 お付きの女官たちは彼女の機嫌の悪いのに巻き込まれて鞭打ちになったり、顔をひっぱたかれたりして日々を過ごした。誰もが彼女に怯え、宮廷は暗い、ひそやかな闇に満ちた。

「子供が産まれた以上は、その母親を愛人とするわけにはいかぬ」

 夫はそう言って一方的に彼女を離縁した。スニェークにとっては、願ってもないことであった。

 スニェークは生国に帰った。父は年老いている。本来、彼女の従姉妹を次の女王に迎えるはずであったのを、それを廃してスニェークが次代の女王となると決まった時、彼女は全身に力が漲るのを感じた。

 わらわの時代が来る。晴れ晴れと澄み渡り、秋の空のように冴えたわらわの時代が。

 間もなく父王が亡くなり、跡を継ぐに当たって、彼女が真っ先にしたことはその配偶者探しであった。

 彼女は言った。

 身分の上下など気にはせぬ。そんなものは、非常時には何の役にも立たぬ。わらわは軟弱な男はいらぬ。鋼のように強く、それでいてわらわ一人を愛してくれる男子がわらわの夫にふさわしい。

 国中から、我こそはという者が集まってきた。美男子から美丈夫、たくましい顔つきの者から歌を能くする者まで、ありとあらゆる若者がやってきた。

 しかし、スニェークはそれだけでは満足しなかった。

「強い男子は独身とは限らぬ。それに、女を孕ませるだけの能力を持った男というものも要る」

 彼女はこれはと思う既婚者を片っ端から候補に入れ、宮殿に召し上げた。女たちが殺到して、口々に夫を返してほしい、そんな無体をしないでほしいと懇願した。

 無体?

 スニェークは鼻で嗤った。

 なにが無体だというのじゃ。無体をはたらかれたのはわらわじゃ。わらわがいながら、どこの馬の骨の者ともわからぬ愛人に熱を上げ、子を成し、わらわを廃するほうが無体というもの。無体をされたのはわらわじゃ。

 妻帯者たちの多くは、彼女の床に侍るのを拒んだ。

 女王陛下、私には妻がいます。他の女性と寝るわけにはいきません。私は妻を愛しています。

 男たちは口々に言った。

 その度、額に青筋を浮かべて、彼女は激怒した。

 庶民の分際でわらわと寝ることを拒むとは何事じゃ! わらわはこの世に比類なき女性にょしょうぞ。なにゆえそれを拒む。

 愛されることなく育ったスニェークは、また人を愛するということがどういうことなのかも、わからなかった。

 そして、彼女は今日も饗宴を開く――若い男たちが彼女の元へ侍り、次なる王とならんと目論む、狂った宴を。

 甘く切ない歌声が耳をくすぐった。

 候補者の一人か、と目をやると、その男は衣服を着ている。では、城下から招かれた吟遊詩人か。その声の持ち主は赤い髪をひとつに束ね、瞳を閉じて朗々と歌っている。

 なるほど美しい声の持ち主じゃが、わらわの好みではない。

 と、上半身裸の若い男が側へ寄ってきた。

「女王様」

「なんじゃ。わらわの元へ来ようというのかえ」

 若者は何事かを耳元で囁くと、彼女の太腿に手をやった。

 くすくす笑いとあやしげな気配が天幕の影に隠れ、闇にまぎれて堕ちていく。

 その周りを、また全裸の男女が酒を飲みながらくすくす笑って二人が抱き合う様を見つめている。時にくちづけを交わしながら、時に肌を触れあいながら。

 そこから離れた場所で、一人だけ上半身裸の男がいた。

 ジェラールであった。

 彼は不興極まりないといった不機嫌面で顔を背け、なるべく目立たないように部屋の隅に立ち、毎日をこうして過ごしていた。

 甲高い笑いがあちこちで聞こえてくる。

 ため息をつき、そっとその場を離れる。

「女王様、新しい余興の準備ができましてございます」

「おお、こちらにもて」

 新しい余興……? あの女、次はなにをするつもりだ。

 ジェラールは訝しく思って、天幕の影から柱のむこうをそっと伺った。

 薄衣を纏った若い娘が、怯えながら連れて来られた。

「娘、そなたはいくつじゃ」

「じゅ、十八でございます」

「あのお方が言った通り、十八の生娘。結構。やれ」

 兵士がやってきて、娘の薄衣を乱暴に剥いだ。娘の身体が、露わになる。たまらず悲鳴を上げる娘の首を、兵士は無言で刎ねた。

「ほっほっほっ。十八の生娘の生き血。これを浴びれば、わらわは美しさを留めることができるとはあのお方のお言葉じゃ。五日に一度、娘を連れてこい」

「かしこまりました」

 あのお方……?

 女王が男から離れて、盥いっぱいに入った血を浴びるのが見られた。その凄惨な光景に、ジェラールは思わず目をそらした。

 首と離れ離れになった身体とが始末され、女王が湯を浴びに行き、男たちがそれを追いかけて、広間は少しの間静かになった。

 ジェラールはふう、とため息をついて、自分の部屋へ戻った。自分の部屋といっても二人一部屋の共同寝室で、一人の時間などない。相部屋の男はリグ=ミルリルの人間で、女王の目に留まって少しでも出世したいと考えている、そればかりしか頭にない男だった。「おい、どうだった」

「なにが」

「今日は女王の目に留まったのか」

「そんなはずあるわけがない」

「ちぇっ、そうかよ。お前、見栄えがいいから今日こそはと思ったんだけどなあ」

「あんな女、こっちから願い下げだ」

 どのみち、目立たないようにしている。目に留まることはないだろう。

「そんこと言うなよ。めでたく第一愛人になれば巨万の富だぜ。そしたら、俺もお側に置くよう言ってくれよ」

「自分でやれ」

「つれないなあ」

 ジェラールは着替えて、横になった。

 目を閉じると、ラツェエルのすみれ色の瞳がよぎる。

 ラツェエル。本当に俺を忘れてしまったのか。俺を忘れて、あの男の胸に抱かれているのか。

 そう思うと、やりきれない思いでいっぱいになる。

 翌日も、大広間では女王の痴態が繰り広げられた。饗宴は続き、城下は寂れ、五日ごとに娘たちが宮殿に連れて行かれた。

 ジェラールが連行されて、二週間が経った。

 その日も大広間で若い男と睦み合う女王を柱の影から見ていると、女王がそれに気づいた。彼女は半身を起こし、

「これ、そこな者。来やれ」

 とジェラールを手招いた。

「……」

 まずいぞ。気づかれた。仕方なく、側に行く。

「名を名乗れ」

「……ジェラール」

 不愛想にこたえると、女王はおかしそうに笑った。

「なぜ服を着ておる。脱ぎや」

「寒いからだ」

「そのために火を焚いておるのじゃ。脱ぎや」

「脱がん」

「脱ぎや」

「脱がん」

「脱げ」

「脱がん」

「……」

 ジェラールと女王が、睨み合った。

 切りつけるような緊張感が、大広間に奔った。しばらくの間、誰も喋らなかった。

 その沈黙を破ったのは、女王の高笑いだった。

「ほっほっほっほっ。わらわに楯突くとは愉快じゃ。気に入った。今宵の伽を申しつくる。 わらわの寝室に来るがよい。待っておるぞよ」

「……」

 ジェラールはぷい、と背を返して、自分の部屋に行ってしまった。同室の男は興奮して彼に言った。

「お、おい。やったな」

 しかし、彼は女王の寝室に行くことはなかった。

 当然のごとく、女王はかんかんに怒った。

 いや待てよ。これは殿方が使う、焦らせる手段というやつなのかもしれぬ。そうすると、益々燃え上がると聞く。ジェラールめ、なかなかかわいいことを思いつく。

 女王はそう思って、深夜まで枕を握り締めて待った。待ち焦がれた。

 だが、やはりジェラールは来なかった。

 そうして夜が明けた。

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