第二章 4

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『お前も十四か。色っぽくなったじゃないか』

『叔父様やめて。なにするの』

『いやあ……』

 あの日のことを思い出して、リディアは我が身を抱き締めた。

 忌まわしい記憶、封印したい思い。

 あれで、自分はこの国を飛び出した。着の身着のままで、金すら持たずに。なにも知らない十四の小娘が生きていくには、世間は厳しすぎた。

 生きるためには、なんだってやった。

 生まれが高貴なことなど、なんの役にも立たなかった。

 弓が得意なことが、役に立った。狩りで獲った獲物の毛皮を売って、金にした。その肉も、売ることができた。時には、それを食料にすることもできた。

 そうして街から街へ、国から国へと渡り歩いて、いつしか旅人となっていた。ジェラールとガディと出会ったのは、そんな時のことであった。

 初めは、男二人のこの連れに、警戒心を抱いた。

 しかし、この二人は興味を持つ女といえば娼婦だけであったし、およそ自分には見向きもしないので、安全といえば安全と言えた。そして共に戦う内、ジェラールに恋をした。

 彼の海色の瞳、その瞳に見つめられると、身体が動かなくなった。まるで罠にかかったうさぎみたいに、危険だとわかっていて尚、そこにいたいと思ってどうしようもなくなるのだ。

 彼の側にいられればそれでいい、そう思っていた。どうせ、ジェラールは娼婦しか相手にしない。その代わり、彼の側にいるまともな女は私だけ。

 そう思っていた。

 そこへ、あの女がやってきた。

 すみれ色の瞳の、蕾売り。

 身体を売らない、蕾売り。

 彼女はいきなりやってきて、リディアの前からジェラールをさらっていった。そしてリディアの目の前でこれでもかというほどジェラールとの愛を見せつけて、リディアの劣等感を煽った。

 その、どうしようもない底なしの絶望に、リディアの焦燥感は募った。もがけばもがくほど、その沼は深くなっていって彼女の足元をさらい、足首を掴んで離さないのだ。

 あの森で蕾売りのくせにとラツェエルを罵ったことを、リディアは深く悔いている。

 そんなこと言っても、どうしようもないのに。

 そんなことは、彼女のせいでもなんでもないのに。

 ラツェエルは、なんでもなかったように振る舞ってくれている。どうすれば、許してくれるだろう。どうすれば、ジェラールの隣にいる彼女を笑って見つめることができるのだろう。

 しかしそれを思うとまた、深く絶望する。愛しているのだ。

 涙が出てきて顔を覆っていると、扉がノックされた。はっとしてそれを拭い、返事をすると、ヴァリが入ってきた。

「下で話し合いだそうです。来られますか」

「行くわ」

 短くこたえて、身支度をする。鏡を見て、泣き跡がないか確かめた。

 階下へ行くと、皆が揃っていた。誰もが、深刻な顔をしている。

「どうしたの」

「実は……」

 ラツェエルが公爵邸であった事を話し始めた。リディアはそれを、終始黙って聞いていた。ベリチェリフロルのことも、黙って聞いていた。

 そしてラツェエルが話し終えると、リディアは初めて口を開いた。

「……それがほんとでも、不思議じゃないわ。叔父は目的のためなら手段を選ばないひとよ。宰相になるためには、どんなことでもするわ」

「魔物の手を借りてでも、ですか」

「それぐらいはするということよ」

「うーん」

 ガディが難しい顔をして腕を組んだ。

「こりゃ的が外れたぞ。せっかく近づいた公爵は清廉潔白、代わりに伯爵が怪しいってなったら、もうお手上げだ。リディア、会いに行けないか」

「十四の時に家出したのよ。今更会いに行ったって門前払いよ」

「そうだよなあ」

「尻尾を出すまで、待つしかないわね」

「選挙の日というのは、いつじゃ」

「明後日だそうだ」

「もうすぐですね」

「待つしかないかあ」

 そこへ酒場の主がやってきた。

「あんたらに、どっかからお使いが来てるぜ」

「使いだあ?」

「文のようだな。開けよう」

 ジェラールが蝋印を見てみると、それは見覚えのある公爵のものである。

「なんだ? なんて書いてある」

「なになに……選挙の日において、貴殿方の腕を見込んで身辺警護をお願いしたく、公爵邸にお出向きの依頼を……」

 ジェラールは顔を上げた。

「伯爵に近づけるぞ」

「あの公爵様も親切だなあ」

「あとはなんて書いてあるの」

「公爵邸に滞在してほしいとある」

 ジェラールは顔を上げた。

「これは好機だぞ」

「早速支度をしましょう」

 一同は二階へ行って、荷支度をした。

 そして公爵の蝋印のある手紙を持って公爵邸へ行き、公爵に面会を申し込んだのである。「やあ来てくれたね」

 公爵はしたり顔で応接室で待っていた。ラツェエルが、

「ああいった手紙を出せば、来てくれると思っていたよ」

「私たちが公爵様の身辺警護をすることで、公爵様の得になることはおありですか。警護の者など、どこからでも雇えそうですが」

「君たちがいいと思ったからそうしたまでだよ。私は物好きで知られていてね。酔狂なんだよ。例えば、九十になる叔母の誕生日の祝賀会をやったり、素性の知れない旅人を雇うくらい、私にとってはなんでもないことさ」

 ジェラールとガディは顔を見合わせた。

「確かに物好きだな」

「しかし、こちらにとっては好都合だ。世話になろう」

「屋敷のなかのものは、自由に使ってくれていい。選挙は明後日だ。警護のことについては、明日話す」

「いいだろう」

 そうして三日が経ち、選挙の日がやってきた。

 この日は伯爵邸で候補者たちが顔合わせをする日である。既に国民には公示がされているので、特別彼らに対してなにかをする必要はない。

「顔合わせって、なにをすんの?」

「まあ、最後の話し合いのようなものだよ」

 しかし、魔物にまで手を借りてまで宰相にならんとする男と話し合いをして、なにになるというのか、こちらが聞きたいものである。

「とにかく、君たちはあちらの部屋で待機していてくれ」

「へーい」

 一同が言われた通りに廊下を移動しようと歩いていると、リディアの後ろ姿をみとめて話しかけた者がいた。

「……リディアか?」

 いきなり後ろから手首を掴まれて、彼女はぎくりとして振り返った。

「叔父様?」

「やはりそうか。大人っぽくなったな。見違えたぞ。ここでなにをしている」

「あ……」

「夜に私の部屋に来なさい。話をしよう」

 じろじろと、体中を舐めまわすように見られる。手を掴んで、離さない。

「失礼、あなたは?」

 そこへ、ヴァリが割って入った。

「なんだお前は」

「彼女の連れです。彼女は私と行かなければなりません。失礼」

 行きましょう、と言われ、リディアはヴァリに連れられて廊下を行った。その素早さたるや、風のようであった。

「あ、ありがと」

「ああいう手合いには、遠慮していてはだめです」

 ヴァリには珍しく、機嫌が悪いようである。

「あれが伯爵、あなたの叔父ですか。なるほど、不愉快な人物のようですね」

「う、うん」

「あれが原因で、家出をしたのですね」

「――うん」

 リディアはうつむいた。ヴァリはもうそれ以上問いただしてくることはなく、窓の方へ行ってしまった。突然叔父と遭遇したことが理由で、リディアはどきどきしていた。

 やっぱり、恐い。なにをされるかわからないから、恐い。大人の男の力。太刀打ちできない恐怖。

 先程手首を掴まれたことを思い出して、ぞわりと鳥肌が立つ。居場所が知られてしまった。どうしよう。今度は逃げられないかもしれない。

 ちょうどその頃、選挙立候補者による最後の話し合いが行われようとしていた。

「それでは、両者立ち合いの元話し合いを」

 と、裁定人が言い出した時のことである。

 伯爵が、おもむろに口を開いた。

「公爵様におかれましてはなかなかに評判がよろしいようで、なんでも愛人が何人もいらっしゃるとの巷でのもっぱらの噂、羨ましい限りでございます」

 公爵はじろりと伯爵を睨みつけた。

「おやおや、それがもし事実だとして、宰相としての職務になにか影響があるのか聞きたいものですな。もし事実ならば、ですが」

 それにしても、と公爵は指を組んだ。

「あなたこそ、その顔の傷は姪御さんを賊から庇ってできたものだと豪語なさっておいでだが、本当のところはあなた自身がその賊ではないのですかな」

「な……なんだと」

「ふた回り以上も年が下の女性にしか興味がない、違法に少女を買っているとの噂も流れていますよ」

「な、なにを」

「そんな人物が宰相になった日には、国も乱れようというもの。嘆かわしい話です」

「う……く」

 伯爵が歯噛みし、屈辱に耐えた表情になった。

「まあまあ、ご両者それくらいにしておいて、今は投票の結果を待つということで」

 裁定人が汗を拭き拭きそう言うと、室内は気まずい空気に包まれた。

 投票結果は夜にまで持ち込まれた。

「中間発表です」

「どうなっている」

 伯爵はいらいらとして管理委員に尋ねた。

「はい、現在、公爵票が五割、伯爵票が五割です」

「なんと」

「伯仲というわけですか」

「これは、夜にならないとわかりませんな」

 そして、夜になった。

 警護の者たちにも食事が運ばれ、皆が一様に休む間にも、票は開かれていった。

 そしてその日の八の刻には、結果が出たのである。

「開票が終わりました」

「申せ」

「はい、五万二千票対四万三千票で、公爵の勝ちです」

「な……なんだと」

 伯爵は声を上げた。

「そんなはずはない。数え直せ。選挙はやり直しだ」

「それはできません。公正なものですから」

「だめだ。やり直しだ」

「伯爵、見苦しいですぞ」

「そうだ。結果を受け入れろ」

「選挙は選挙だ」

 公爵は目を瞑り、それらの声を黙って聞いている。

「う……」

 伯爵は奥歯を噛みしめ、拳を握り、苦渋の表情になってなにかを必死に耐えている。

 そして突然立ち上がり物凄い声で咆哮したかと思うと、見る見るうちにその姿を変えていった。

「伯爵……!?」

 その声を聞きつけて、隣室にいた警護の者たちが続々と駆けつけてきた。ジェラールたちも、やってきた。

 伯爵の身体中から、毛がもしゃもしゃと生えてきた。口からは恐ろしくも長い牙が伸び、その目は黄色く光った。そしてその体躯は五倍にも膨れ上がると、部屋の天井を突き破って屋敷を破壊せんばかりに巨大化してしまったのである。

 そして伯爵であったものはリディアを乱暴に掴むと、そのまま海の方向へと歩いて行ってしまった。

「リディア!」

「追おう」

 空が曇り、雷があちこちに光って、雨が降り始めた。

 伯爵であったものは意外に足が速く、人間の足ではとてもではないが追いつけない。

 沿道で、雷に怯えて暴れる馬があちこちにいた。

「あれを」

「あっおい」

 ヴァリがその馬の内の一頭に飛び乗って、伯爵であったものを追いかけた。仲間たちはそれを追おうとするが、暴れる馬を抑えかねて、なかなかうまく乗ることができない。

 そうこうする内にもリディアを掴んだ伯爵であったものは海辺へ到着し、浜へと近寄ろうとしていた。そして、リディアを捧げるように海へと掲げた。

 なに……? 私を、どうしようというの?

 リディアは混乱する頭のなかで必死になにかを考えようとして、その内自分は生け贄にされるのだと思い至った。私、殺されるんだ。叔父様に、殺される。死ぬ。死ぬんだ。

 馬の蹄の音がどこからか響いてきて、それにつれて波の音も聞こえてくる。

 雷が鳴る音までもが轟いて、いよいよ自分は殺されるんだという実感が沸いてきた。

「リディア……!」

 慣れ親しんだ声が、鼓膜に響いた。雨に打たれながら必死の思いで振り返ると、見慣れた金髪が雨に滲んでいるのが見えた。

 ヴァリだ。

「風よ聞け雨よ聞け 今 我の命を解き放つ」

 ヴァリは大声で詠唱を開始していた。

 やっとのことで追いついていたラツェエルはそれを聞いて青くなった。

「ヴァリ……なんてことを……!」

 それを耳にしたリディアは、自分を救うためにヴァリが命を懸けていることを知った。 やめて。私はそんな価値のある人間じゃない。

 リディアはなんとか叔父の手から逃れようと、その手に噛みついた、しかし、巨大化したその身体には、その程度の痛みは蚊に食われた程にしか感じられぬ。

 ヴァリは尚も詠唱を続け、それは益々早くなっていく。

 ラツェエルは焦った。

 どうしよう。このままだとヴァリも、リディアも死んじゃう。考えなくちゃ。どうすればいい? 考えなくちゃ……!

 そこへ、ようやくガディとジェラール、エトヴァスが到着した。

「なんだなんだどうなってる」

「ジェラール」

 三人は馬から下りて、息を飲んで事態を見守っている。

「そうだわ」

 ラツェエルは閃いた。

「エトヴァス、ガディの短剣をあそこまで飛ばせる?」

「やってみよう」

「合図したら、あの魔物の頭目がけて飛ばして」

 ガディが短剣を取り出した。

 エトヴァスがそれを見て、詠唱し始めた。少し遅れて、ラツェエルも詠唱を開始した。

「風の乙女 吐息を吹きかけよ 右手を左手に 左手を右手に」

「神の息吹 怒れる拳よ 我の命にて集え集え我の拳に」

 ヒュッ……

 ガディが手を放し、短剣が宙に浮いた。

 そして短剣はそのまま、伯爵であったものの頭へ突き刺さった。

「集え、あれなる剣に」

 カッ。

 その瞬間、雷が短剣に集中した。

 伯爵であったものは雷に打たれた。同時に、ヴァリの詠唱も完成していた。その炸裂した呪文はまっすぐにリディアに伸び、彼女を包み込んでふわりと浮いた。

 そして波打ち際にリディアを放り投げると、すっと消えてしまったのである。

 伯爵であったものが、白い光を放って爆発した。

 リディアは観念して、目を瞑った。

 ザ……

 ザザ……

 彼女が目を覚ました時、目の前には顔を煤だらけにしたヴァリが自分を覗き込んでいた。

「リディア……ああよかった。目を覚ましましたね」

「……ヴァリ……?」

 リディアは身体を起こそうとして、痛みに顔を顰めた。

「突然起きてはいけません。ゆっくり」

 ヴァリに手を借りて、彼女は起き上がった。

「いた……」

「怪我はありませんか」

「あちこち擦りむいてるけど……大きいのはないみたい」

「よかった……」

 と、彼が安堵しているのへ、リディアはじろりとヴァリを見上げた。

「なにがよかった、よ」

「え?」

「あんな無理して、どういうつもり? 死ぬつもりだったの」

「え、いえ、それはその」

「私なんかを助けるために、命がけになることなんかなかったのに」

「……そんなことを言わないでください」

「――え?」

「私なんか、なんて」

「――」

「あなたはただそれだけで充分素敵です。自分ではそれに気づいていないだけで」

 リディアは言葉を失った。

「わ、私なんて」

「あなたなんて、なんですか」

「か、髪は赤いし」

「赤毛はきれいですよ」

「そばかすはあるし」

「それがなんですか」

「……痩せてるし」

「もっと食べればいいでしょう」

「ら、ラツェエルみたいに白くないし」

「彼女は彼女、あなたはあなたです」

 ヴァリはため息をついて、リディア、と言い聞かせるように言った。

「いい加減気づいてください。あなた自身の魅力に。あなたにはあなただけの魅力がある。 ラツェエルにはラツェエルだけの、あなたにはあなただけの」

 リディアの明るい緑の目に、じわりと涙が浮かんできた。

「そ……そんなこと言っても」

「そんなこと言っても?」

「そんなこと言っても、あんたのこと好きになんて、ならないんだから」

 言葉に反して、涙がぽろぽろと流れてくる。

 ヴァリはにこりと笑った。

「いいですよ、それでも」

 とうとう堪えきれなくなって、声を上げて泣いた。

「泣かないでリディア。私が側にいますから」

 ヴァリは泣き続けるリディアの肩を抱いて、ずっとそこにいた。

 後に続くは寄せては引く波の音だけが、

 いつまでも

 いつまでも……

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