第二章 2

 海辺の国、イド=グリエラに着いた。

 季節は最初の月、薄青磁の月である。

 街に入ると、冬だけあって人々の足はどれも早く、急いでいる。

「どこかに宿をとろうぜ。寒くてかなわねえ」

 一週間の野宿で、身体は芯まで冷え切っている。

「お風呂屋さん行きたいわね」

 リディアが言うと、

「行って来いよ。女二人で」

「え? うん」

 ラツェエルがうかない顔で返事をする。

「どうした? この前から元気がないな」

「なんでもないわ」

 ジェラールに問われても、ラツェエルはそう返事をするしかない。今リディアとは、二人きりになりたくない。

「リディア、行ってきたら? 私はもう少し休んでから行くわ」

「そうね。私は今行く」

 リディアは風呂屋に行き、ラツェエルは二階で休んだ。その間、ガディとジェラールは酒場で色々なことを話し合った。

「この国のことを知りたいな。あまりここには来たことがない」

「冬だってのに、妙に活気がありやがる。なんでだ?」

「なんでも、もうすぐ選挙があるそうですよ」

「選挙だあ?」

「ええ、宰相を決めるためのもので、貴族のなかから選出されるそうです。今年は公爵と伯爵の一騎打ちだそうで、見ものだそうですよ」

「へえ……」

 ガディは肘をついて、そんな返事をした。およそそんなことには、興味がない。貴族が宰相になる話など、庶民の我々になんの関係があるのだ。所詮そんなことは、雲の上の話である。

 しかし、国民にとっては自分たちの生活の如何を決定する重要事項である。だからこその盛り上がりというわけだ。

 やれ伯爵が勝つ、いいや今年はなんとしても公爵だ、と、酒場のあちこちでもそんなやり取りが聞こえてきた。

 そんななかから、やり過ごせない会話が流れてきた。

「公爵はなんでも、魔物の手を借りてでも勝つとか勝たないとか言ってるらしいぜ」

「恐ろしいお方だからなあ」

「あの人は、勝つためならなんでもやるからな」

「それじゃあ賭けの配当は公爵に傾く一方だなあ」

 おい、とジェラールはガディに囁いた。

「今の、聞いたか」

「ああ」

「魔物って言ってたな」

「確かに言った」

「当たりか?」

「かもな」

 そこへリディアが風呂屋から帰ってきて、入れ代わりにラツェエルが出かけていった。「なんとか、公爵に近づけないかな」

「相手はお貴族様だ。なんとかもこうとかもない」

 旅人が突然訪ねていっても、いいところ追い出されるか、悪くすれば牢屋に入れられるのがおちだろう。

 頭を悩ませていると、その内にラツェエルが帰ってきた。

「みんなして難しい顔して、どうしたの?」

「公爵とお近づきになりたいんだよ」

「公爵? どの公爵?」

「どの公爵って、もうすぐ宰相になるかもしれない公爵様だよ」

「それってフェイザン公爵のこと?」

「そうそのフェイザン公爵……って、なんでそんなこと知ってる」

 ジェラールとガディはラツェエルに向き直った。

「なんで……って、お風呂で女のひとたちが話してたのよ。公爵様が近々、叔母様の九十歳のお誕生日のための祝賀会を開くって」

「それ、なんとかして潜り込めないかな」

「一介の旅人が? 無理でしょ」

「賢者でも無理かあ」

「待てよ、ヴァリ」

「は、はい」

「お前の父親、確か男爵だったな」

「あ、え、は、はい」

「なんとかならないか」

「……」

「なるんだな」

「だ、男爵と言っても、滅法地位の低い男爵で……」

「なるんだな」

「な、なります」

「よし、至急連絡してこい」

「そ、そんな」

「行ってこい」

 嫌がるヴァリを無理矢理鳩の通信場所に連れて行き、彼の父親に連絡を取り、とうとう公爵からの招待状をもぎ取った一行は、祝賀会の晩餐に参加する資格を得た。

「私は行かないわ。そういうの、苦手」

 リディアは行かないと言い出し、エトヴァスも、

「年寄りには無縁の話じゃよ」

 と留守番を決め込んだ。招待された本来の主であるヴァリと、その連れであるガディとジェラールとラツェエルが行くことになった。ヴァリの連れは女性であるラツェエルということになるので、馬車は別々だ。

 ジェラールは公爵邸に到着して初めて、正装したラツェエルの姿を拝むかたちとなった。

「――」

 真っ白な絹のドレスは、黒い髪によく映えた。白が、すみれ色の瞳に反射している。

 ジェラールは感極まって、なかなか声が出ないようである。

「ジェラール?」

 どうしたの? と声をかけられて、彼ははっとして彼女に手を差し出した。

「……きれいだ」

 ラツェエルは光がはじけるように微笑んだ。

「ありがと」

 行きましょ、と二人で並んで歩いた。

「いいのかよ、お前の連れだろ」

「私はそこまで野暮ではありませんよ」

 ガディとヴァリはその後ろを歩いた。

 晩餐の後は、舞踏会である。今年九十になる叔母は矍鑠としたもので、公爵と二曲も踊り、別の客とも踊り、元気いっぱいである。

「あれは、百まで生きるな」

 ジェラールはガディにそう言った。

 ラツェエルは喉が渇いて、一人で飲み物を取りに行った。そのラツェエルの後ろを、男たちの視線が追った。編み込んだ髪が、さわさわと白い絹の上を這っている。

「失礼、お嬢さん」

「はい?」

 誰かに話しかけられて、ラツェエルは反射的に振り向いた。

「踊っていただけますか」

「――」

 それは紛れもない、公爵本人であった。

 好機だ。

「――はい」

 曲が始まった。ラツェエルは手を取られて、広間の中央へ出た。

「あっ、ラツェエルだ。あれは、公爵だぜ」

「どうやら、踊るようですね」

「――」

 ジェラールはそれを、複雑な心境で見ていた。

 あいつが他の男と一緒にいるのを、初めて見た。

 蕾売りだったということを、忘れたわけではない。でも、蕾を売っていたところを実際に見たことはない。

 だから、他の男といるのを見るのは、これが初めてだ。

 ああ、あんな風にして、腰に手を回されて。あんな風にして、手を取られて。あんな風にして、見つめ合って。

 そうして彼が見守るなか、曲が終わった。

 公爵がラツェエルに跪いて、そっとその手にくちづけするのが見られた。あくまで紳士的な男なのだろう。噂とは程遠い男だ。

 本当に魔物と手を組んでまで宰相の地位を手に入れようというのだろうか、という疑問が、むくむくと頭をもたげてくる。

 ラツェエルが、なにか公爵と一言二言話しているのが見られた。しかし、それも束の間であった。二人はサッとその場を離れた。

「お帰り、どうだった。なにか、話せたか」

「ううん、なにも。でも、あとでバルコニーで会える」

「それは重畳ですね」

「あとでってどれくらいあとだい」

「多分、舞踏会が終わる頃」

「じゃあそれまで、隠れて待ってよう」

 ジェラールはラツェエルの手を取って、それから公爵がくちづけした方の手を持ってごしごしと擦って、それで終わりにした。そんな彼を、ラツェエルは不思議そうに見ていただけであった。


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