第一章 4

「ラツェエル、手紙だよ」

「手紙?」

「小包みも来てるよ」

「?」

 遠方から便りが来るような友など、いない。差し出し人を見ると、『G.』とあった。

 ラツェエルの顔がパッと輝いた。

 手紙にはこうあった。

『ラツェエル 元気でやっているか。俺は相変わらずだ。相棒のガディが食べ過ぎて腹をこわした。お前も食べすぎには気をつけてほしい。途中で立ち寄った国で、指輪を見つけた。お前の瞳の色の宝石を見つけたので、それを嵌めた。裏に俺とお前の名前を彫ってもらった。この宝石は日光の光を受けると緑に、燭台の光を受けると紫になるらしいが、俺の心もそれと同じように移り気だと思わないでほしい。お前の指の寸法がわからなかったが、あの夜握ったお前の手の記憶を頼りに作ってもらった。指にはめて、俺を思い出してくれるといいと思う。 愛をこめて ジェラール』

 小さな小包みを開けると、白金の指輪が入っていた。確かに、緑の宝石が嵌められている。試しに蝋燭の光で照らしてみると、それは紫色になった。

 こんな貴重な宝石、どこで手に入れたんだろう。

 指につけると、ぴったりだった。ラツェエルはそれを左手にはめて、外さないでいた。 顔を洗う時も風呂に入る時も、つけていた。

 仕事をする時も本を読む時も、ふとした時に指輪が目に入ると、彼を想った。そうして、辛い日々を乗り越えて過ごしていったのである。

 若い旅人に身を任せたと聞いて、娼婦の友達の多くは馬鹿だね、あんたは騙されたのさ、とラツェエルを笑った。しかし、マルゴだけは、

「指輪、もらったの。へえ、いいじゃん。もっと近くで見せてよ」

 と言っただけだった。

 ある日、娼婦の友達と連れだって、野原に弁当を持って遊びに出かけた。近頃は物騒だというので、ウエインがついてきてくれた。

「ああ気持ちがいいねえ」

 マルゴが寝転がって、目をそっと閉じる。

 娼館には昼にも客が来るが、ある程度融通が利くことがある。その融通が利く顔触れだけがこうして外出できたというわけである。

 ラツェエルは花を摘んで、女将に土産に持っていくことにした。春の日は気持ちがいい。 《青い樫》亭に戻ると、

「あんたのいいひとから手紙が来ているよ」

 と、女将が教えてくれた。ラツェエルは女将に花を渡すと、代わりに手紙を受け取った。『ラツェエル 元気でいるか。最近、戦に参戦した。魔物退治も大切な仕事だが、また人間相手も時にはする。この間は用心棒、その前は要人の警護だった。仕事の割合は人間相手の方が多いくらいだ。俺もその方が気が楽だ。俺が娼館に一緒に行かなくなったので、ガディが文句を言うようになった。ヴァリを誘ってほしいものだが、ヴァリは堅物なのでそうしたがらない。どうも好きな女がいるようだ。しかし、彼はまた口も堅いのでなかなか白状しない。どうにかならないものか。

 春がやってきたな。俺の今いる大陸ではもう、レンゲが咲き始めている。メヨ=アハネドではどうだ。お前に早く会いたい。愛をこめて ジェラール』

 ラツェエルは顔を上げた。レンゲか。そういえば、野原にはもう咲き始めていたな。

 ジェラールの旅の連れには花の名前を教えてくれるひとがいるのかしら。女性かな?

 そんなことを考えていると、あることを思いついた。

「女将さん、私ちょっと出かけてくる」

「おや、今帰ってきたばかりだろ」

「うん、すぐ帰ってくるから」

「一人で大丈夫かい」

「平気よ」

 ラツェエルは両手いっぱいに花を抱えて帰ってきて、それを売ってなにかをし始めた。

 その日以来、客を待っている間、昼になにもしていない間、彼女はちょっとした空いた時間になにかをしていたようである。

 ジェラールは、月に一度は手紙をくれた。

 今はここから大分離れた大陸にいるらしい。

『ラツェエル 元気でやっているか。夏になったな。今いる大陸は草原が多いので、緑がきれいだ。風が渡る様を、お前にも見せたいと思う。お前の事情が早くなくなって、二人で共に旅ができるようになればいいと思う。愛をこめて ジェラール』

「ラツェエル、手伝っておくれ」

 女将に言われて、ラツェエルは顔を上げた。

「はい、女将さん」

 日々の仕事は辛く、悲しいものばかりだった。客は横柄で、相変わらず彼女を物扱いした。二階に連れて行こうと、無理矢理引っ張る男も連続した。

 ウエインがちょっと目を離すと、ラツェエルはそういった客たちにまるで引きずられるようにして引っ張られていくのだった。

 しかし、そういった生活もジェラールからの手紙の一通ですべて忘れられた。彼は必ず手紙の書き出しに元気でいるかとラツェエルに尋ね、終わりに愛の言葉で結んだ。

 秋になる頃には、ラツェエルの文箱は彼からの手紙でいっぱいになるようになった。

 その日の昼下がり、酒場でいつものように客を待っていたラツェエルは、突然椅子からずるずるずると滑るように落ち、そのまま倒れた。

 それがあまりにも自然な動作であったので、初め誰もそれに気がつかなかった。ラツェエルが椅子から落ちたことに気がついたのは、用心棒のウエインだった。彼はラツェエルが床に落ちる寸前にそれに気づいて、慌てて彼女を抱きとめた。

「女将、大変だ」

 昼日中の、比較的客の入りが落ち着いた時間であったため、女将も振り返る余裕があった。

「身体が燃えるように熱いぞ」

「すぐに二階に連れて行くんだよ」

 ラツェエルは二階の自室に連れて行かれ、医者が呼ばれた。秋熱かとも思われたが、原因はわからないとのことだった。

「とんでもないヤブだよ。なんだい原因不明ってのは」

「なにしろ、冷やすしかないってんだから」

「冷やしたって氷がすぐに溶けちまうんだから世話ないよ。もっと他に、薬とかないのかね」

「俺に言われても困るぜ」

「誰かに連絡した方がいいのかしら」

「うーん……」

 ラツェエルの素性は、誰も知らない。故郷も、親のことも、知る者は誰一人としていないのだ。友達ならいるが、その程度だ。

「手紙をよこす男ならいるが、あちこち旅してるんじゃあどこにいるかわからないし」

 娼婦の友達がたくさん見舞いにきて、部屋には花が溢れた。

「あれまああの子にこんなに友達がいたなんて」

 女将は度肝を抜かれて、一人驚いている。マルゴがうなされているラツェエルを覗き込んで、心配そうに呟いた。

「ラツェエル、死んじゃだめだよ。また来るからね」

 熱は下がらず、ラツェエルはうなされ続け、二週間が経った。医者は相変わらず首を傾げ、原因がわからないと言って帰っていき、女将を憤慨させた。

 蕾売りが病気らしい、どうやら死にそうだという知らせは街中に知れ渡り、こんなとこなら俺もあのかわいらしい唇を買っておけばよかった、と今更ながらに後悔する男が続出した。

 そして十一番目の月、薄滅紫の月になり、突然ラツェエルの熱が下がった。

 全快したのである。

 あれだけうなされ、汗をかいていたのが嘘のように晴れやかな表情で、彼女は起きてきた。一時は生存も危ぶまれていたとは思えないほどの顔つきであったという。

 女将やウエインや、友達の娼婦たちは手放しでこれを喜んだ。

「ひと月も寝込んでいたんだよ」

「ひと月も?」

 ラツェエルは驚いて聞き返す。

「どうりで体中固いはずだわ。背中が痛いの」

「そりゃあんだけ寝てりゃそうなるさ」

「ゆっくりお風呂にでも入って、身体を伸ばすんだね」

「快気祝いに飲もうじゃないの」

 口々に言う面々にこたえながら、しかし、ラツェエルは己の肉体のわずかな変化にも、気づいていた。

 ――これは……?

 もしかして……

 そしてその夜、自室で恐る恐る『それ』を試してみた彼女は、自分の憶測が本当だということに気づいて、驚愕に慄いていた。そして、ひとり歓喜にむせび泣いた。

 ジェラール。

 これで一緒に行ける。一緒に行けるわ。

 次の手紙は、いつだろう。その日を心待ちにした。

 しかし、その月の手紙はやっては来ず、次の月の灰青の月になっても、手紙は来なかった。

 ラツェエルは鬱々として唇を売り続けた。

 どうしちゃったんだろう……忙しいのかな。戦にでも行っているとか? なにか、事情でもあるのかしら。

 揺れる暖炉の火を見ていると、また憂鬱になってくる。さあっ、と冷たい空気が入ってきて、誰か新しい客が入ってきたのがわかった。もうそんな時間か、と思いながら、また火を眺める。

 悩み事があると、本を読む気にもなれない。どうせ、字の羅列を目で追うのが関の山だ。「お嬢さん、二階に行こう」

 またか。うんざりして、断ろうと振り返った。

「――」

 そして、そこで硬直した。

 そこには、彼がいた。

 なつかしい、海色の切れ長の瞳。

「ラツェエル……」

 感極まったように両手を広げ、ジェラールはそこに立っていた。ラツェエルは自分が見ているものがなんなのかよくわからなくて、すみれ色の目をぱちくりさせて、ようやく理解してきて、それから背の高い椅子から落ちるように降りると、よろよろと彼の側まで歩み寄った。

 そして倒れるようにジェラールに抱きついた。

 若い二人の抱擁を羨むような口笛がどこかで吹かれた。

「あ……」

「手紙を出せなくて、すまなかった。驚かそうと思って」

 耳元で囁くその声すら、鼓膜のなかで轟くようで。

「座ろう。話したいことが山のようにある」

 ジェラールは酒場の隅に彼女をいざなうと、酒と食事を女将に注文した。

 一年ぶりの再会だった。

 額と額をくっつけて、二人は色々なことを話した。手紙では書ききれなかった旅の話、日々の暮らし、仲間の話のことを。

「これ、着けてて」

 ジェラールの手首に、ラツェエルはなにかを結んだ。

「摘んできた花を売って、買った糸で編んだの。魔よけの紋様が編みこんであるわ」

 それは、ジェラールの瞳の色と同じ、青い刺繍糸で編まれた、複雑な模様のものだった。

「唇を売ったお金では、買いたくなかったから……」

 それを聞いて、そのいじましさに、ジェラールはその場でその唇を奪いたくなった。食事がすんで、二人は二階のラツェエルの部屋に行った。

 燃えるような夜を過ごし、朝を迎えれば、ジェラールが仲間を紹介すると言う。

「お前に会わせろってガディがうるさいんだ」

「あなたの相棒ね」

 彼の手紙にも何度も登場する、ジェラールの大切な片割れである。

「ジェラール、私も話したいことがあるの」

「うん?」

「私、私ね……」

 

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