第一章 3
2
そのささやかな異変に気づいたのは、風呂屋に行ったときのことだった。服を脱いで浴室に向かうと、どうも周りの視線が気になるのだ。
なんだろうと思っても、別に異常はない。いつもの時間に来ているから、どうということはない。いつもの顔触れだから、職業で差別されているというわけでもない。しかし、理由は風呂から上がって判明した。
身体を拭いて髪を乾かしている時に、ふと鏡が見えて、それで自分の身体が映ったのだ。「……」
体中に、鬱血痕があった。それに初めて気がついて、顔に血が上った。
あの夜、ジェラールがつけた痕であった。思えば、他の男に触れさせないための彼の措置のようでも、また彼の愛の徴であったのかもしれない。
かあっと顔が熱くなって、慌てて服を着た。
これって、どれくらいで消えるものなんだろう。明日から、人のいない時にお風呂来なくちゃ。今度マルゴに聞いてみようかな。でもやっぱり、恥ずかしい。
《青い樫》亭に戻ると、ちょうど繁盛している時間帯である。蕾売りの仕事もこれからだ。椅子によじ登り、本を読む。
客が来ない時でも、籠に金貨を入れておく。これは、女将の案だ。そうすると、客がつきやすいのだそうだ。
「よう、いくらだ?」
今日初めての客だ。本を閉じて、顔を上げた。
「金貨二枚からよ」
「十枚だ」
客が横柄に金貨を籠に投げ入れた。大枚をはたく客ほど、無礼な男が多い。これは経験則である。この客はラツェエルの首に手を回して強引に唇を寄せてきた。
ラツェエルはこういう時、相手がジェラールだと思うことにしている。客がジェラールだと思えば、大抵の嫌なことは耐えられる。どんな辛いことでも、忘れられる。
ただ悪いことに、ジェラールは彼女の嫌がることをしないため、この方法はほとんど功を奏しない。
この客もそうだった。首に吸い付いてきて舐めまわしてきたので、身体を離して拒絶した。
「やめて」
「いいじゃないか」
「いや」
「つれないことを言うな。この前男と二階に行ったそうじゃないか。私とも行こう。
な?」
太腿を撫でまわされて、ぞわりと鳥肌が立った。
「やめて」
「行こう」
「そこまでだよ」
ウエインがそれに割って入った。
「な、なんだ貴様は」
「お客さん、わきまえてもらわないと。嫌がる娘に無理強いしてたらそりゃもてないに決まってる」
「こっちは十枚払ってるんだ。当然だ」
「大枚払ってりゃなにしても許されると思うのがもうだめ。十枚分のことはもう充分してるよ。帰っとくれ」
客が帰っていくと、ラツェエルは着替えに二階に行った。そうすると、また鏡に身体が映った。ジェラールがつけた痕は、自分を守ってはくれなかった。思わずそこにうずくまって、声を殺して泣いた。
その日の着替えでジェラールの背中についた無数の爪痕を見たガディは、おやおやと声を上げてそちらへ歩み寄った。
「ジェラール、娼婦には爪を立てるなといつも厳命するお前がどういう風の吹き回しだ? いい女でもできたのか」
自分では見られない場所がゆえに、それを見られてばつの悪い顔になったジェラールは言い訳ができなくなって口ごもる。相手は相棒である。いつかは話さねばならないと思っていた。
「一緒に暮らしたいと思う女と出会った」
ヒュウ、と口笛を吹く音が聞こえて、それからガディが自分を覗き込む。
「どんな女だ」
「言うか」
「つれないなあ。聞かせろよ」
「誤解を呼ぶ」
「誤解なんかするもんか。俺とお前の仲だろ」
服を着てすたすたと行くジェラールを追いかけて、ガディは尚も尋ねた。
「いいじゃんか。教えてくれよ。どんな女でも落とせなかったジェラールが、娼婦しか相手にしなかったあのジェラールが、とうとう惚れた女ができたってか。話せよ」
ジェラールはちらりとガディを見た。
「……最後まで聞くか」
「聞く」
「約束するか」
「する」
「……」
ジェラールはそっとため息をついた。この相棒からは、逃れられない。
「蕾売りだ」
「なんだ、娼婦じゃんか」
「最後まで聞け」
「聞く」
「身体は売ってなかった」
「唇だけか。生娘ってことか」
「そうだ」
「確かめたのか」
「この身をもってして確かめた」
「そうだったのか」
「そうだった」
「それで、背中の爪痕か」
「そういうことだ」
「ふーん」
ガディは腕を組んで、じろじろとジェラールを見た。
「お前、なかなかやるじゃんか」
「それは褒めてるのか、けなしてるのか」
「褒めてるんだ」
「もういい」
ヴァリが何事かとこちらを見ている。彼の着替えはいつも早いため、ヴァリはこんな会話には参加しない。老齢のエトヴァスに至っては、会話など無用の長物である。
こうしてじゃれ合っているのはいつもジェラールとガディだけなのだ。
「なにをしてるのよ。男のくせに、着替えが長いんだから」
待たされていたリディアがいらいらとしている。女一人だから、こういう時なにもできないのだ。
「はいはい、ごめんよ」
ガディがリディアに謝って、皆で歩き出す。こうして五人で旅をして、一年になる。
ジェラールとガディは共に旅をして二年目だ。十七になろうという時、一人旅をしていて知り合った。
男二人で旅をしていると、楽しいことが色々とあった。共に娼館に入って、抱いた娼婦の感想を言い合った。酒の飲み比べをした。
腕相撲をした。剣の真剣勝負をして、互いに研鑽をした。
そうして一緒にいて相手に命を預けていると、なんでも話せるようになってくる。例えば、旅先で出会った蕾売りの恋人のことなども。
「おい、お前のいい女、名前なんていうんだ」
「誰が言うかそんなこと」
「つれないなあ」
「なにを話してるの?」
リディアに問われて、ガディは慌てて取り繕った。
「あ、え、いや、ジェラールにいい女ができたんだよ。いわゆる、恋人ってやつ」
「こいびと……」
唖然とするリディアの呟きを、ヴァリだけが気づいている。
「ねえ、それってどんなひと?」
「え、いや、秘密だよ」
「いいじゃない、教えてよ」
「言わないよ」
頑なに断られて、リディアはむくれた。なによ、ジェラールのばか。
そんなリディアを見て、ヴァリはふっと悲しげに微笑んだ。誰もそれに、気がつかない。 その時、ヴァリの感応がなにかを察知した。
「魔物の気配がします」
「どっちだ」
「右です」
「行こう」
リディアが矢をつがえ、エトヴァスが杖を構えた。
魔物と戦ってしまうと、死体を始末した。手足の一部を切り取って、近くの街へ行く。 そうして施設にそれを持っていくと、手足の部位によって金が支払われる。ジェラールとガディは、早い年齢からこうして金を稼いでいる。親のいない身の上では、こうするのが一番手っ取り早い生活の方法だった。
「あんたら、旅人かい。依頼を受けるつもりはないかね」
「依頼による」
「どんなのだい」
「迷宮にある、あるものを破壊しに行くんだ。詳しいことはこの屋敷に行って話を聞いてきてくれ。場所はここだ」
紙片を手渡されて、その屋敷に行った。
屋敷の主は胸まで髭を垂らした老人で、紫のローブを羽織った風格のある顔立ちをしていた。
「この森の奥にある古い迷宮のどこかに、心臓の形をした石像がある。それを破壊してきてほしい。今まで数多くの旅人に依頼してきたが、誰も帰っては来なかった」
ジェラールとガディは顔を見合わせた。それだけ危険な任務ということだ。
「報酬は?」
「金貨百枚」
ヒュウ、とガディが口笛を吹いた。
「大金だな」
「それだけの価値があるということだ」
「その石像は、いったいどういうものなんだ」
「事情があってそれは言えん。言えんが、とても大切なことだ」
ジェラールとガディは目と目で話し合った。断ることもできる。が、どうする? 二人は短い時間で語り合った。
「……いいだろう」
「森までの地図はこれだ」
地図を受け取って、一旦宿まで戻った。
出立は、三日後だ。
それまでに支度をしなければならない。思い立って、ラツェエルに手紙を書いた。明日をも知れぬ我が身である。
しかしそれまでは記さずに、ただ愛の言葉だけを書いて、封をした。途中立ち寄った店で見つけたものも同封して、小包みにした。
そうしてジェラールは仲間と共に迷宮へ入っていった。
迷宮は深く、入り乱れていた。どこをどう行っても同じ道に出るので、縄を出し、それを細くほどいてそれを目印にして歩いた。そうすれば、一度歩いた場所には出ないというわけである。
時折、見たこともない魔物に出くわした。
これには、ジェラールもガディも手を焼いた。エトヴァスの魔導も効かないことがあった。身体ごと吹き飛ばされて、壁に嫌という程叩きつけられて気絶するということも多々あった。
薄れゆく意識のなか、ジェラールの瞼にはラツェエルのすみれ色の瞳が映っていた。
待ってる。
彼女はあの夜、そう言った。
待ってる。
そうだ。俺は待たせてる。愛しい女を待たせてるんだ。こんなとこで死んでる場合じゃない。
そう思うと、重い身体の底から力が湧いてきた。
「……ガディ、生きてる?」
「生きてる」
相棒に呼びかけると、大抵はそう返事が返って来る。その返答を聞くとジェラールは痛む身体を起こし、顔を顰めて仲間を探す。
「ヴァリ、生きてるか」
「……リディアは?」
「あっちだ」
「エトヴァスは……あそこで死んだふりしてる」
ガディがエトヴァスを助け起こすのが見えた。
「あいたたたた。あー腰が痛むわい。老齢の身体にはちときついわいのう」
「爺さんしっかりしてくれよ」
「もうちょっと簡単な依頼はないもんかのう」
「人助けなんだから文句言わない」
「ガディ、こっち、新しい道があるみたい」
リディアが別の方角を指し示す。魔物に注意して道を行き来していると、広場に行き当たった。そこには、噴水があった。
迷宮には似つかわしくない、水を湛えた立派なものである。
「なんだ? なんでこんなところに噴水が」
「ガディ、注意してください。なにか変です」
ヴァリが警告した。
「ここから先は行き止まりだわ。もう他には道はないみたい」
「どうなってるんだ?」
ガディはきょろきょろと辺りを見回した。
「別の場所を探してみよう」
ジェラールが先導して、広場中を探した。
しかし、思わしいものはなにもない。
「なにもないぜ。あのじじいに一杯食わされたのかもな」
ガディが汗を拭きながら言った。
「はあ、それにしてもここは暑いな。喉が渇いた」
彼は空になった革袋に、噴水の水を満たして入れてそれを飲んだ。
「お前……不用意にそういうものを飲むなよ。毒だったらどうするんだ」
「大丈夫だって」
ジェラールとそんなことを話していると、ちょろちょろと流れていた水音が徐々に消えていった。
「うん?」
「なんだ?」
そして、突然噴水の水が止まったのである。
「あら?」
「水が……」
「止まったのう」
カチリ、とどこかで音がした。
「なんの音だ」
ゴゴゴゴゴ、という轟音と共に、噴水の底が割れて、地下が見えた。
ジェラールとガディは顔を見合わせた。
「ほら見ろ。俺のおかげだぜ」
「やれやれ」
「行こうぜ」
さらに地下へ行くと、一本道である。不思議なことにそこは霊気に満ちていて、魔物の気配はない。
コツ、コツ、コツ……石畳を踏む足音だけが響く。
松明を掲げていると、やがて行き止まりに行き当たった。
「あっ……」
そこは、石の壁だった。
石の壁に、なにかがめりこんでいる。
それは、心臓の形をした石像だった。
「これだ……」
石像なのに、それは脈々と確かに脈打っていた。それが、不気味だった。
「エトヴァス、壊せるか」
「やってみよう」
エトヴァスが杖を構えて、詠唱した。呪文が地下に響いて、満たされる。
気合いの声と共にそれが放たれると、石像にひびが入った。ぴし、ぴし、と音がして、次いでそれが石の壁から外れて出てきて、粉々になった。
こうして、心臓の形の石像は破壊されたのである。
迷宮から出て、屋敷へ戻ると依頼料が支払われた。
老人は大喜びして、ジェラールとガディの手を握った。
「よくぞしてくれた。よくやってくれた」
そう言って、何度も何度も礼を述べた。
よほどのことであったのだろうと、二人は顔を見合わせる。
「さあ、疲れたろう。今夜は泊っていきなさい。食事もある。食べていきなさい」
老人の歓待で、彼らは下へも置かぬ扱いを受けた。
街の宿屋にはない、ふかふかの広いベッドと、ばかでかい浴室、贅沢な料理でもてなされて、五人は腹いっぱい食べることができた。
「さあ、もっと飲まれよ。これからは、お前さんたちが近くに来た時には積極的に依頼をするとしよう。お前さんたちが頼りになるとわかれば、いくらでも頼りがいがあるというものじゃ」
「そうこなくっちゃ」
そうして夜は更けていった。
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