第一章 2
ジェラールは仲間たちと別れて、ひとりメヨ=アハネドの街を歩いていた。
仲間といつもいると、こうしてひとりの時間を持ちたくなる。大切なひとときであった。 さて、夕食はなににしよう。どこぞの酒場で過ごすか。
そう思い、日が暮れてから適当な場所を選んでそこに入った。
小ぶりの、どこにでもあるがよいにおいの立ち込める酒場。長い間旅人をやっていると、どこの酒場がうまい食事を出すかだいたいわかってくる。今夜の酒場も、当たりのようだ。 酒を頼みながら食事をしていると、なんとなく他の客に目がいった。どの客も、幸せそうに飲み食いしている。
ここの客は満たされているな。結構結構。いい客筋の酒場は、居心地がいいはずだ。今夜はここに泊まるとするか。
サッと冷たい空気が入ってきて、どこかで扉が開いたことを知らせた。しかし、入り口ではない。首を巡らせると、それが裏口であることがわかった。
誰が入ってきたのだろうと見ると、若い娘であることがわかった。
その娘の姿に、ジェラールの目は釘付けになった。
空間を切り裂くような、すみれ色の瞳。まるで夜明けの空のような色をしている。それに、長い長い黒の髪。白い肌は、向こう側が透けてしまいそうだ。形のよい唇が、女将と話していて微笑んでいる。
なんという魅力的な笑みだ。
若いジェラールはその笑顔に一度で魅了された。
あの子、誰だろう。女将の娘かな。
柄にもなくどきどきとして、ジェラールは娘を観察していた。娘はどうやら外出から帰ってきたらしく、花を摘んで戻ってきたようで、花の半分を女将に渡し、もう半分を花瓶に活けて、それを暖炉の上に置いて飾った。
これからここを手伝うんだろうか。だとしたら、話す機会があるかな。名前を聞くくらい、できるだろうか。
若い娘と話すなど、娼婦くらいとしかないジェラールである。どうすればいいのかわからない。
こっちに来ないかな。来い。
しかし彼の願いむなしく、娘はその魅惑的な笑顔をどこかへやってしまうと、悲し気にため息をついて、そして暖炉の側にあった背の高い椅子に座ると、衝立を立ててそこにあった本を読み始めた。
あ、と思った。
あの娘は、蕾売りなのか。
見たところ若いのに、なぜ娼婦なんか。
なにか、特別な事情でもあるのか。
しかし、それなら話は早い。話しかけることができるぞ。いや待てよ。それじゃまるで身体目当てに見えるな。俺はあの子と寝たいだけなのか? どうなんだ?
悶々としていると、時間ばかりが過ぎていく。
しかし、本を一心に読む娘の横顔を見ていると、自分が単に欲情しているだけではないことに気づく。
早くしろ。蕾売りは娼館の娼婦と違って、一晩につき一人の客としか寝ない。誰かに取られたら、それっきりだ。この国には今晩しかいない。今日しか機会はない。
ジェラールは酒を一気に呷って、意を決して立ち上がった。
そして、ゆっくりと娘のいる場所まで歩み寄った。
娘は彼の気配に気づくと、本から目を上げて顔をそちらに向けた。
二人の目と目が合った。
ラツェエルはその海色の瞳に、息を飲んだ。
このひとは、なんて熱い目で私を見るんだろう。
まるで、火山の溶岩みたいに、熱い熱い瞳で。
ここで私に話しかけるお客たちとはまるで違う、欲にまみれていない、もっと純粋な、きれいな、よごれていない、なにか。私の知らない、未知のなにか。
「俺の名はジェラール」
客のなかで名前を名乗ったのも、彼が初めてであった。
「君の名前を聞かせてくれ」
そんなことを聞いてくるのも、また彼が初めてであった。
「……ラツェエル」
「ラツェエル。突然で悪いが、俺と二階に行かないか」
「……」
ああ、やっぱりこのひとも、同じか。でも、それでもこのひとの私をみる目は変わらない。相変わらず、熱い熱い瞳で私をじっと見ている。溶けてしまいそうに、じっと見つめている。
マルゴが言ってた。娼婦は時々、客と恋をする。大抵は騙されるけど、でもなかには本気の恋をして、客と結ばれる女もいるって。そんな女は千人に一人もいないけど、たまにいるんだって。
私、このひとならいい。騙されてもいい。こんなに熱い瞳で私を見つめてくれるひとにら、騙されてもいい。
ラツェエルはそのすみれ色の瞳をそっと閉じた。
「……いいわ」
そしてジェラールに手を取られ、そっと椅子を降りた。
おおっ、という小さなどよめきが、酒場に満ちた。
おい、ラツェエルが落ちたぞ。どんな高い金を出しても落ちなかったあのラツェエルが、とうとう落ちた。
「? なんだ」
「いいのよ。行きましょ」
酒場中の好奇の視線を不思議に思ったジェラールを促して、ラツェエルは彼と二階に行った。
ラツェエルの部屋に着くと、彼女は窓から外の様子を見た。冬の冷たい空気が、窓に結露を作っている。ジェラールはベッドに腰かけて靴を脱ぎ、ついでに上着を脱ぎ始めている。
そんな彼の気配を感じながら、ラツェエルは表を見たまま静かに言った。
「私、処女よ」
ぴたり、彼の手が止まったのがわかった。ジェラールがこちらを見ている。ラツェエルは振り向いて、彼を見た。
「それでもいい?」
上半身を裸になったジェラールは、驚いて彼女を見上げた。
「君は蕾売りだろう」
「蕾売りよ」
「でも処女なのか」
「でも処女なのよ」
ジェラールは顎に手をやって、なにかを懸命に考えている。しばらく、沈黙が部屋を支配した。
「いくつだ」
「十八よ」
「そんなに若いのに、なんで蕾売りなんかやってるんだ」
「……」
ラツェエルはそのすみれ色の瞳を悲し気に伏せて、黙ってしまった。ジェラールは初め抱いた印象にあった、なにか事情があるのかということを思い出していた。
「それで、ずっと客と寝ないでいたのか」
こくん、とラツェエルがうなづいた。
「俺で、いいのか」
こくん、またラツェエルがうなづいた。彼女は言った。
「こっちこそ聞きたいわ。こういう時、処女は嫌がられるって聞いたから。それでもいいの?」
ジェラールはやれやれ、とでも言いたげにため息をついた。
「俺は、君を一目見て気に入ったから声をかけたんだ。ただ寝たいだけなら、娼館に行って娼婦を抱く」
そして彼は立ち上がり、ラツェエルの側に歩み寄った。
「もう一度聞く」
ラツェエルはびくりとして、彼を見上げた。
「俺でいいのか」
ジェラールはその顔に触れて、すみれ色の瞳を覗き込んだ。そうすると、外の灯かりを反射して、自分もその目に映っていた。
ラツェエルは戸惑いながらも、こくん、とうなづいた。ジェラールはもうそれで我慢ができなくなって、夢中でその唇を奪った。
ラツェエルにとっては何十回、何百回目のくちづけではあったが、初めて口をゆすぎたくないと思うそれであった。
女を抱くなど日常茶飯事のジェラールであったが、今度ばかりは勝手が違った。
床のなかで、彼はラツェエルに何度も何度も大丈夫かと聞き、幾度も幾度も痛くないかと尋ねた。ラツェエルは痛みと未知の快感に打ち震えながら、唇を噛みしめて小さくうなづくだけだった。
娼婦としか寝たことのないジェラールは、ラツェエルを抱きながらまた愛を囁くということをも知った。今までそれは、彼には無縁の世界であったにも関わらず、まるで自分のものではないかのように唇から紡ぎ出されてはするすると言葉になった。
事が終わった後しっかりと抱き合った二人は、しばらく無言でいた。ジェラールの銀の髪が、街灯の灯かりを受けてにぶく光っている。彼はラツェエルの髪をなでながら、
「俺、処女と寝るの初めてだ」
とぼそりと言った。
「そう」
ラツェエルも短くこたえた。
「お互い、初めてだったというわけね」
ラツェエルは起き上がると、まだ身体の痛みが疼くのか、ちょっと顔を顰めた。
「なあ、俺と来いよ」
そんなラツェエルの背中を見て、ジェラールは静かに言った。
「俺は明日仲間と共に発つ。俺と一緒に行こう。蕾売りなんてやめて、俺と行こう」
ラツェエルは瞳を閉じた。
耳に響く、あの高笑い。殺された同胞、惨殺された師、燃やされた樹々。
「……それはできないわ」
ジェラールは飛び起きた。
「なぜだ」
ラツェエルは彼から顔をそらした。
「俺じゃだめか」
「だめじゃない」
「じゃあ、一緒に行こう。仲間に話せば、わかってくれる」
「だめなの」
顔を背けたまま、ラツェエルはもう一度言った。
「だめなの」
ジェラールは裏切られた気分になって、ベッドから抜け出した。
「なぜだ」
「――」
「俺とじゃ、一緒に行けないっていうのか。騙したのか」
「ちが……」
「所詮、蕾売りだもんな。そんなこともわからずに、俺もまだまだ青いってわけだ」
「ジェラー……」
はっ、と息を吐いて、腹が立って腹が立って仕方がなくて顔を背けた。裏切られた気持ちでいっぱいになって、彼女の顔を見たくなかった。
ふ、と泣き声が漏れて、それではっとして顧みると、ラツェエルの肩が震えている。
「ラツェエル」
ジェラールはベッドの上に乗って、ラツェエルに触れた。
「さわらないで」
泣き声が、拒絶している。
「さわらないで」
お願いだから、私をこれ以上傷つけないで。もうやめて。お願い。
「……すまない」
ジェラールは後悔の気持ちでいっぱいになって、その冷えた肩を抱いた。それでたまらなくなって、ラツェエルはその厚い胸にすがった。熱い涙が自分の胸を濡らして、それで益々胸が痛くなった。
「……一緒に行けない理由があるんだな」
ラツェエルはなにも言わずに、泣きながらただ一度だけうなづいた。ジェラールはため息をついて、彼女が泣きやむのをじっと待っていた。
そうして夜が明けた。
二人はその間、色々なことを話した。
ジェラールは旅の話や仲間のことを、ラツェエルは幼い頃のことを。
残酷なまでに時間はあっという間に過ぎて、朝はやってきた。
「行くのね」
「ああ」
朝食を共に食べながら、二人は短く話した。言いたいことは山のようにあった。が、それは言葉にならなかった。
「俺、旅先から手紙を書くよ」
うん、とラツェエルは短くこたえた。
「必ず戻ってくるから、待っていてくれ」
うん、それにもラツェエルはそうこたえた。
「金を置いていっても、お前は受け取ってくれないんだろうな」
なるべく、唇を売ってほしくない。しかし、金を渡したら彼女を買う男たちと同じになってしまう。
その矛盾に、どうすればいいのかわからない。
うつむくラツェエルの手の上に、ジェラールはそっと手を置いた。
「俺はお前の生き方に口を出さない。健康でいてくれ。そしてなるべくなら、他の男に身を任せないでほしい。俺が望むのはそれだけだ」
「誰にも身体を売るつもりはないわ。過去にも、未来にも」
ラツェエルはきっぱりと言った。
「そうか。そうだよな」
身体ってのは、一度売ってしまったらあとはずるずるずるいってしまうものだよ。あとはこの世の地獄さ。マルゴの言葉が脳裏をよぎる。
「待ってる」
噛みしめるように、ラツェエルは言った。
「待ってる」
それで、二人は別れた。
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