第一章 1

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 ≪青い樫≫亭に若い、美しい蕾売りがいる、と評判が発って、男性客が殺到した。

 その多くは、単にラツェエルを一目見たくてやってくる客ばかりだった。ウエインの言葉通り、客が増えて酒場は大繁盛した。

 たまにそのなかでも猛者がいて、ラツェエルに話しかける男がいた。大抵は彼女の唇を買おうという者たちで、多くはそのまま彼女と二階にしけこもうという算段でそうする男たちばかりだった。

「いくらだ?」

 本を読んで客を待っている彼女に、男はそう話しかける。するとラツェエルは顔を上げ、

「金貨二枚からよ」

 とこたえる。これが彼女の唇の値段だ。

「そうか。じゃあ頼む」

 男と同じ視線になるほどの背の高い椅子に座るラツェエルは、座ったまま接客をする。

 ラツェエルは金を受け取ると、椅子の側の籠に受け取った金貨を入れる。男はそれを見て、彼女の腰に手をやる。そして唇が重ねられるのだ。

 支払われた金の金額が多ければ多いほど、くちづけの時間もまた長くなる。

 それは、客の主観的感覚によるものが大きい。

 ねっとりと舌を差し入れ、歯の裏をなぞり、唾を舐め、腰から尻に手が行って、ラツェエルはそこで身体を離した。

「おっと、まだだぜ。金貨五枚だ。まだ時間になってない」

「……」

 これ以上やっていると、なにをされるかわからない。その恐怖で、再び唇を重ねる気にはなれない。

「ほら、来いよ」

 ぐい、と無理矢理唇を押しつけてきた。そして、胸を掴まれる。

「……やめて」

 ラツェエルは客を押しのけた。

「気取んなよ。蕾売りのくせに。この後は二階に誘うつもりだろ。来いったら」

「嫌。やめて」

 手首を無理矢理握られて、痛くて悲鳴を上げた。

「やめろ」

 ウエインがやってきて、客の手首を捩じり上げた。

「いててててて。なにしやがる」

「嫌がってるじゃねえか。もう終わりだ」

「金貨五枚払ったんだぞ。まだだ」

「尻触って胸掴んだら充分だ。帰んな」

 手首を逆の方向に捻られて、今度は客が悲鳴を上げた。

「ひでえ店だ。二度と来ないからな」

「こっちがごめんだよ」

 女将が捨て台詞を吐いて、扉が閉まる。一日に一回は、こうした客が来る。

「大丈夫か」

「ありがとウエイン」

 ラツェエルは背の高い椅子からするすると降りて、酒場の裏口から出ていく。そしてしばらくすると、口元を拭いながら戻ってくるのだ。

「口をゆすぎに行くんだよ」

 いつだったか、それを不思議そうに見ていたウエインに、女将がそう教えたことがあった。

「次の客のためにか」

「そう、思うかい」

「……」

 なぜ、十八の若さで蕾売りなどという汚れた仕事をするのか。

 なぜ、まともな仕事に就こうとしないのか。

 ラツェエルは話そうとしない。

 それを聞くと、悲しそうな顔をしてうつむいてしまう。なにか事情があるのだろう。

 だから女将もウエインも、いつしかそれを聞くことをやめてしまった。

 独立した、娼館に属さない娼婦は、娼館の娼婦たちに嫌われている。同族嫌悪というやつであろうか、それでいて、縄張りを荒らす蕾売りを敵視しているのである。

 それに、ラツェエルは身体を売らない蕾売りだ。

 当然、娼婦たちからは蛇蝎のごとく嫌われた。また、街の女たちからも男を誑かす下の下の娼婦として扱われた。

 こんなことがあった。

 ある日の昼下がり、買い物に出かけたラツェエルは、出先の香茶店で香茶を買おうと店に赴いた。そこに、三人の女がいたのである。

 カランと扉のベルが鳴って、ラツェエルが店内に入ると、なかにいた女たちが一瞬、話すのをやめてそちらを見た。そしてひそひそと彼女を見て囁き合っているのである。

「香茶をください。金茶と銀茶を」

 店の主人がうなづき、準備をしていると、女たちの一人が声高に話し出す。

「ねえねえ、聞いた? 最近じゃ、蕾売りが昼日中に街を大手を振って歩いてるっていうじゃない」

「それに、高い香茶をこれでもかっていうほど買って、いい気なもんさね。人んちの亭主を誑かして、かわいらしい笑顔振り撒いて、にこにこしてりゃそれでいいんだからさ」

「唇売って、股開いてさ!」

 あはははは、と女たちが大笑いした。

 ラツェエルはそっと瞳を閉じた。

 なにも聞こえない、なにも感じない。私はここにはいない。誰もここにいない。

 お待たせいたしました、と言われ、包みを受け取る。そして、何事もなかったように店を出た。

 歩いていると、悲しくて悔しくて涙が出てきた。

 泣いているところを誰かに見られてもいけないと思い、裏路地に入って一人で泣いた。「あら? あんた泣いてるの? なんかあったの」

 そんな時、一人の女が話しかけてきた。顔を上げると、派手な赤い服に茶色の髪、けばけばしい化粧の二十代の女がこちらを窺っていた。

「どうしたの」

 ラツェエルは涙を拭って、

「……なんでもないわ」

 と立ち上がり、そのまま帰ろうとした。

「待ちなよ。若い女の子が一人で泣いてるなんてふつうじゃないよ。話してみなよ。話すだけですっきりするってこと、あるからさ」

 と手を掴まれた。

「……」

 その手の温かみに、ラツェエルはなんとなく安心して、それで女と街を歩きながら香茶店であったことを話した。

「ふうん……あんたか、評判の蕾売りって。どうやら話に聞いてただけの子じゃないみたいね」

 女は、マルゴと名乗った。娼婦だという。

「あたしら、あんたのこと誤解してたよ。お高く止まってる嫌な子だと思ってた。でもなんか、違うみたい。誰だって売らないでいいなら売りたくないよ、身体なんて。あんた、立派だよ」

「そんなことないわ。覚悟がないだけ。私、卑怯なのよ。逃げてるの。逃げて、いいとこだけ取ってるの」

「石投げられるのわかっててそうする奴が卑怯なはずあるもんかい。身体はね、一度売ってしまったらあとはおんなじ。ずるずるずるずるいってしまって、もう後戻りはできないんだ。この世の地獄なんだよ。あんたはそれをわかってる。だから、手を出さないんだ。 偉いよ。立派だ」

 よしよし、と頭をなでられて、ラツェエルはまた涙が出てきた。

「あれあれ、泣くんじゃないよ。しょうがないね」

 マルゴに抱き締められて、その胸で思うさま泣いた。

 辛い日々の苦労が、流されるような安心感だった。

 その日から、ラツェエルはしばしば娼婦たちの元へ遊びに行くようになった。寄る辺ない身の上に、初めて友達ができたのだ。

 十二番目の月、灰青の月がやってきた。

 真冬の寒い空気が忍び寄ってきて、ラツェエルは暖炉の側で椅子に座り、客を待った。

 その日も客はやってきて、本を読んでいるラツェエルに小袋を見せて言った。

「これでどうだ」

 ざっと見積もっても、金貨十枚はあるだろう。ラツェエルは客にわからないようにため息をついた。

「……いいわ」

 断る権利は、こちらにはない。客は彼女の腰に手を回してきて、自分の下半身を押しつけてきた。そして自分の舌を無遠慮に差し入れてきて、ぬるぬるとラツェエルの口のなかを舐めた。

 その感触が気持ち悪くて、ラツェエルは早く終われ早く終われと心のなかで念じる。しかし、金貨十枚だ。そう簡単には終わらせてはくれないだろう。腰にあった手が、上に這い寄ってくる。

 腹、胸、鎖骨、そして耳。客の口は、唇から離れて首筋を這った。

「……やめて」

「いいじゃないか」

「やめて」

「黙ってろ」

 ちろちろと首を舐められて、逃げようとしても腰をがっちりと掴まれて逃げられない。 耳を噛まれ、舐められる。

「やめて」

「二階に行こう。な?」

「いや」

「その辺にしておけ」

 ウエインが止めに入った。

「な、なんだお前は」

「嫌がってるだろう。料金の分は楽しんだはずだ。いい加減、やめ時だ」

「なにい」

 客は逆上して立ち向かおうとしたが、ウエインにじろりと睨まれて身が竦んだ。身長が二メートル以上もある大男である。太刀打ちできるはずもない。客がすごすごと帰っていって、ウエインはラツェエルを見た。

「大丈夫か」

「……うん。ありがとウエイン」

 しかし、身体のあちこちを舐められた。気持ちが悪くて仕方がない。

「私、ちょっと着替えてくる」

「ああ、行ってこい。ついでに身体も拭いてこい」

 ラツェエルは二階に服を着替えに行った。そして、気分を変えるために出かけて行った。 時間はまだ夕方、夜はまだまだこの先である。稼ぎ時は、むしろこれからなのだ。


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