世界樹の樹の下で
青雨
第一章
ようやく辿り着いた王国は、どうやらメヨ=アハネドというらしかった。
娘はよろよろと小舟から降りて、浜辺から街を目指した。
耳に残る、あの哄笑。殺された同胞、惨殺された師、燃やされた樹々、すべて、すべてなくなってしまった。
自分はこれからどうすればいいのだろうという絶望を抱えて、娘はとぼとぼと歩いていた。それに追い打ちをかけるように、秋の冷たい雨が降りだす。
とにかく、暮らしていかねばならない。しかし、身体を売るのだけは我慢ができない。 しかし、生計≪たつき≫の道はそれしかないのだ。
街を歩いていると、≪青い樫≫亭という酒場が目に入った。宿も兼用しているようだ。 覗いてみると、用心棒がいて、女将が経営しているようである。これはよさそうな場所だ。それになにより、名前が気に入った。
娘は恐る恐る扉を開けて、酒場のなかに入った。途端にまぶしい光が目に入って、温かい空気が頬をなでた。笑い声が耳に入り、飲食するにおいがする。
幸せな人々の、幸せな時間がある。いい酒場だ。
「いらっしゃい。食事かい」
女将が近づいてきて、娘に尋ねた。娘は少し驚いて、慌てて首を振った。
「じゃ酒かい」
娘はその問いかけにも、首を振った。
女将はじろりと彼女を見て、
「じゃ、なんだい。借金取りかい。それとも、飲んだくれの亭主でも探してるのかい」
娘は再び首を振る。
「あ、あの……」
「なに」
女将はいらいらとして、忙しい時間なのにそれでも根気強く娘の相手をしている。一つには、この娘が若いのになにか事情を抱えているように見えたからかもしれない。
「あの……」
娘はこくんと息を飲んで、それから意を決したように顔を上げて、小さく、しかしきっぱりと言った。
「私、あなたのお店の場所を借りたいのです」
「……」
女将はそれを聞いて、娘を見る目を変えた。頭のてっぺんからつま先まで、じろじろと舐め回すように見た。娘はその無遠慮な視線に、ただひたすら耐えた。女将は言った。
「ふうん……あんたは蕾売りだね」
蕾売りとは、娼館に属さない、独立した娼婦のことだ。また、唇を売る職業の隠語でもある。
「は、はい」
娘は戸惑いながらもうなづいた。
「あのねえ、うちは淫売宿でも娼館でもないんだよ」
「あの、身体は売りません」
「なんだって?」
「売るのは、唇だけです。身体は、売りません」
「なにい?」
「身体は、売りません」
「……」
女将は腰に手を当てて、もう一度娘を見やると、
「あんた、いくつ?」
「十八です」
「そんなに若くて蕾売りなんてやって、どうするの。いくらでもまともな稼ぎ口がある。 他をあたんな」
「蕾売りでなくてはならないのです」
「あん?」
「まともな仕事では、だめなのです」
「じゃ、娼婦になりゃいいじゃんか」
「娼婦は嫌です」
「だから唇売ろうっての?」
「はい」
じゃあ娼館に行け、娼婦は嫌だ、ではまともな仕事にしろ、まともな仕事はできない、押し問答は続いた。
女将がいい加減それに疲れてきた頃、やりとりを聞いていた用心棒のウエインがやってきて、
「女将、その辺にしとけ。そんなに言うんなら、いっぺんやらせときゃいいじゃねえか。 その内辛くなってやめるさ」
「やめなかったらどうすんの。うちはまっとうな酒場なんだよ」
「こんな美人な子がいたら評判になって客がつくじゃねえか。ものは見ようだよ」
女将はしばらく考えていたが、
「……まあ、いいだろう」
と折れた。娘の顔がぱっと輝いた。彼女は頭を下げ、
「ありがとうございます」
と礼を言った。
「あの、場所代はおいくらなんでしょう」
「そうだね、最初は金貨一枚でいいよ。その日の稼ぎができてからでいい」
「お優しいこったなあ、女将よう」
「うるさいよ」
ウエインが娘に笑いかけ、娘がほっとしているのを見て、女将はやれやれと思った。
「そういやあんた、名前は」
「はい、ラツェエルといいます」
「いい名前だ。生まれは?」
「……ここから北に行ったところです」
「言いたくないのかい。まあいいよ。ひとには事情ってもんがあるからね。ラツェエル、これで衝立を買っておいで」
「衝立……?」
「そうだよ。客が見てる前で、唇売ったりするの嫌だろ。衝立が要るんだよ。ほら、さっさとしな。ウエイン、この子についてってやんな。案内するんだよ」
こうして、ラツェエルはメヨ=アハネドの≪青い樫≫亭で蕾売りとして暮らし始めた。
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