胡蝶の夢
車体がゆるやかに左右に振れるたび、船木は落ちてくる瞼を持ち上げる。ここ数か月、深く眠れたためしがなかったものだから、こうして車に揺られているとすぐに眠くなってしまう。隣でパジェロのハンドルを握る小野一等陸曹が、口笛を吹いている。この曲、なんだっけ。
パジェロは山道を飛ぶように進む。時折木々の間から顔をのぞかせる空は、一点の曇りもない。
船木は手の甲で目尻を擦る。ずっと不審なメッセージを送り付けてきていた犯人が逮捕されて、少しだけ安心できた。それでも、毎晩、嫌な夢を見る。深夜に飛び起きる日々は、いつか終わりが来るのだろうか。
「なあ、お前、なんで警察行ったの」
唐突に、小野が言った。本当に唐突だったから、船木は暫し言葉を失った。
「行くなっつったじゃん」
これは、もしかしたら夢なのかもしれない。船木はぼんやりした頭で考える。きっと、いつもの嫌な夢の1つなのだ。そうであってくれないと困る。
「自分が実家に帰ったときも、警察に行ったときも……どうして付いてこられたんだろうと、ずっと思ってたんです」
夢なのだと思ったら、言葉が勝手に出てきた。頭の中でもう1人の自分がやめておけと警告するが、言葉は止まらない。
「小野一曹ですよね」
担当警察官の三沢巡査部長は、船木の行き先を知っている人がいたか、しきりに気にしていた。実家に帰るときも警察に行くときも、上司である小野には事前に相談している。
「今からでも遅くない、被害届下げて、一緒にあの中隊入ろう」
長い長い沈黙を経て、小野が口を開く。
「嫌です」
応えたところで、小野の口笛がチャイコフスキーの『白鳥の湖』であったことに思い及ぶ。頭の中で、純白の衣装をまとった小野が踊りだす。
「あの中隊に入るか死ぬか、どちらかだ、選べ」
小野の手の中で、ゆっくりとハンドルが回転する。船木は、小野が今日は自分が運転すると言って聞かなかったのは、船木の体調を気遣ってのことではないと確信する。
「どっちも嫌ですよ」
「どちらかだ、他の選択肢はない」
船木は、強烈な喉の渇きを覚えた。
「身の危険を感じたら、すぐに110番してください」
三沢の言葉を思い出し、船木は左手で携帯電話を引っ張り出す。
「船木さんの番号を登録しておきます。話せない状況でも、我々がすぐに駆け付けられる」
もう、間に合わないだろうな。そう思いながら、船木は人差し指で1と0をたたく。
「何してる、死にたいのか」
小野が船木を睨むと同時に、車体が大きく左に揺らいだ。
「あの中隊に入るくらいなら、死んだ方がマシです」
船木は、喉の奥から言葉を押し出す。
「それなら、一緒に死のうか」
パジェロが加速する。ヘアピンカーブが目前に迫る。家族の顔が、同僚の顔が、次々と頭の中を駆け巡る。
「全て終わったら、また一緒にスワンボートに乗りましょう」
三沢の穏やかな声、一点の曇りもない空。踊り狂う1羽の白鳥。
パジェロが更に加速する。心臓が浮き上がるような感覚に身を委ねる。雫がこめかみの上を飛んでいく。
耳元で口笛が聞こえた。
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