白鳥の湖
僕は目を開けてから、もう一度閉じ、眠りに落ちることを試みた。週明けからの取調べのことをうだうだ考えていたときから4時間も経っていなかったから、寝不足でないはずがなかった。しかし、なかなか眠気は訪れない。僕は仕方なしに身体を起こし、ベッドから下りた。
着替えて車のキーをつかみ、家を出る。山道を行く当てもなく車を進め、湖の周りを2周した。湖畔の駐車場に車を止める。遊歩道を歩きながら、今担当しているつきまとい事件を、頭の中でもう一度整理する。
水際で1人の男が、水の中を覗き込んでいた。その身体が今にも湖に落ちてしまいそうで、僕は不安になり、男に近付く。男が僕の足音に気付いて振り返る。その顔に見覚えがあり、そしてついさっきまで考えていた事件の被害者、船木三等陸曹であったから、僕は声を上げそうになった。
「三沢さん」
船木も驚いたように視線を泳がせながら、僕の名前を呼んだ。
「大丈夫です?」
船木の顔は、先日警察署で会ったときと同じ土気色だ。彼は何か答えようとして、周囲に視線を走らせる。僕も辺りに視線を巡らせる。
「あそこで、話しましょう」
僕が指差す先を見た船木は、暫し言葉を失い、そして唇を緩めた。
「いいですね」
筋肉質な男2人で話すには、スワンボートは少し狭かった。僕たちは暫く黙ってボートを漕ぎながら、湖の真ん中を目指した。風が湖面を撫でていく。船木は自分の膝が動くのをじっと見つめていた。
「その後、いかがです?」
船木は携帯電話を引っ張り出し、僕に差し出してきた。とある中隊の起こした事件に巻き込まれて以来、彼は尾行されたり、不審なメッセージを執拗に送りつけられたりするという被害に遭っていた。
「ブロックしたけど、また違うアカウントから届くようになって」
最後のメッセージは、今朝届いたばかりだ。
『おはよー』
黄色い顔が、唇を突き出している。その前のメッセージは、ゆうべのものだ。
『まだお風呂?一緒に入ろうヨ』
ハートマークが踊っている。僕は思わず溜め息をついた。アカウントを新調してまでつきまとうなんて、悪質にもほどがある。この報いは必ず受けてもらう。僕は水面に映る山々に誓う。月曜日には被疑者たちを逮捕する、と教えてあげられれば船木は安心できるのだろうが、残念ながらそれが叶わない。
ふいに、口笛が聞こえた。身を乗り出して振り返ると、腹にピンクの塗装を施した白鳥が接近してくる。サン・サーンスの『白鳥』が、少しずつ大きくなる。どうやら悪魔ロットバルトの手先がやってきたようだ。
「場所を変えましょう」
僕は言い、舵に手を掛ける。いつの間にか口笛はヘンデルの『水上の音楽』に変わっていた。きらびやかな音の粒が追い掛けてくる。
「付いてきてます」
僕を見る船木の瞳がわずかに揺れている。
「振り切りますよ!」
僕が船木の目を見て言うと、彼は力強く頷き返してきた。
「行くぞ」
僕らは両脚に力を込める。おそらく今この白鳥は、生まれてこの方出したことのない速度で泳いでいる。中年のおっさんに捕まってたまるか。僕は唇の端で笑う。果たして、付いてこられるかな……?
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