第53話

ただでさえ、運動にウォーキングと自転車で疲れていた乃亜は、時折猫のようなか細い声を上げながら、笑い疲れて眠りに落ちかけていた。


「君があまりに可愛い声出すから、やり過ぎちゃったよ」

「……?」

「今夜も俺の勝ちだね。おやすみ」


 ……。


 ――その夜、乃亜は夢を見た。


(健ちゃん……?)


 彼はベッドの上で、何も言わずに乃亜に覆い被さってくると、激しいキスをしてきた。


 切実に乃亜を求める愛のこもったキスは、良すぎて身体が疼くほど。健は昔よりも、格段にキスが上手くなったようだ。


(気持ちいい……でも……)


 なぜか乃亜の胸には、これまで健に触れられるたび、当たり前に感じてきた喜びが湧き上がらない。代わりに心を満たすのは、戸惑い。


 そして頭に浮かぶ、まだ出会ったばかりの、夫婦ごっこなんかを仕掛けてくる男の顔。


 長いキスが終わり、健の手がそっと胸の上に乗せられた瞬間、乃亜は弾かれたように身を捩り抵抗した。


(いやだ。健ちゃんとはしたくない!)


 しかし夢の中だからか、上手く身体に力が入らない。


「いや、やめて、健ちゃん……!」


 か細い声が口から出た瞬間、ハッと息を呑む気配。


「彼に助けを求めてるの? そんなに好きなんだ……」

「健ちゃん……?」


 健は苦しそうだ。きちんと話し合うべきだと思い、閉じかけている瞼を必死に開けようとする。


 そんな乃亜の目の上に、手のひらが乗せられた。再び眠気に襲われた乃亜は、そのまま深い眠りに落ちていった。

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