高校生以上の人へ;勉強の仕方について

島尾

教科書only人間になるな。塾only人間にもなるな。

 私は現在29歳、A型事業所に通所している身の者である。

 私は1995年、高知県にて生まれた。特技はピアノで、4歳から習っていた。おととい、2年間弾いていなかったピアノを、楽器店にふらふら入ったついでに久々に弾いた。私はやっぱりピアノを欲しているんだと、感じた。201X年、東北大学に入学。そして8年も在籍して、退学した。精神障害手帳2級を所持しているが、それは退学した後の話だ。社会制度に疎すぎて、お金を無駄にした。しかし時間を無駄にしたとは一切思っていないし、感じたこともない。厳密に言うと、退学のショックによる病気の悪化で強迫観念に襲われたとき、病的な形で「自分は空っぽだ」という妄想に囚われたことがある。今では無論そう思っていない。私は学生証を縦横に折って4つに裁断し、とある島に投棄した。大学時代とは、大学の敷地内での時間とそれ以外のフリーな時間に分けられる。私は後者の時間の中で様々な経験をし、ある種の成長と挫折、そして挫折からの再成長、そして再度の挫折ということを繰り返した。一方、敷地内では何も収穫は無かった。なぜならば他人と話すことを拒み、無言だったからである。しゃべったときもあったが、そこに人間的な心は存在しなかったと記憶しているし、記憶が誤りであって実は存在したと仮定しても、簡単に忘れることのできる些末な経験にすぎない。よって学生証という、建物に入れる権利を持っていた証は、8年を過ぎた時点ではもはやクズであり、忌々しい病気を思い起こさせる毒物であった。だから4つに割って島に捨てたのである(ゴミ箱に捨てるために、来年あたりに取りに行くかもしれない)。


 以上、私の略歴を書いた。


 ここからは、勉強の仕方について書く。



 私はあまり言語が得意でないし興味もないので、所謂文系の学問については何も書くことができない。しかし在籍していた学部が理系だったので、ここでは、「円筒の内部に静水圧がかかるときの応力」「電子のスピン」について語ろうと思う。


1.円筒の~~~~~~~応力について

 筒。それは、底とてっぺんが円であり、側面は展開すれば長方形になる。古来から筒は至る所で製造されてきた。

 今、私の目の前にあるのは、お茶の葉っぱを入れる筒である(https://kakuyomu.jp/users/shimaoshimao/news/16818093087043846518)。一般に茶筒と呼ぶ。また、写真の茶筒は3300円で購入した玉虫塗たまむしぬりのものであり、それは仙台で生まれた漆塗り技法である。

 何を言いたいかというと、教科書に載っている「線だけの図」のような、美も趣も無い空虚な図だけを見てあれこれ考えるのがヤバいということに気づくことが重要だということである。決して単純化された図を否定するわけではない。しかし、いつなんどきどんな場合においても「線だけ図」をガン見して懊悩するというのは危険かつ非効率で、科学が何ゆえに誕生するのかを一生知らないまま死ぬという可能性まである。

 さて、筒の中に圧力pが均等に、どの方向にも同じ大きさでかかっているとする。pは案外に大きく、筒はパンパンになっている様子を想像していただきたい。底、上面、そして側面にはpに逆らう応力が必ず存在している。でなければ破裂して粉々になる。

 そのとき先人は疑問を抱いた。底面(または上面)にはたらく応力と、側面にはたらく応力は本当に同じ大きさだろうか、と。もし同じだとするならば、なぜソーセージはフライパンで焼いていたらいつも縦に割れるのか、と不思議がったのだ。縦に割れる理由を知るには、筒にはたらく応力がどうなっているのかを知る必要がある。それは私のyoutubeチャンネルに上げられている動画で説明しているが、普通に材料力学の教科書にも載っている。


2.電子のスピンについて

 スピンとは回転という意味合いである。それは、誰にでも分かることだろう。ところが理系の学徒や学者がこの言葉を偉そうに使っているのを見ると、スピンという言葉が何か驚くべき特異なもののように思えてくることがある。「電子は回っている」ということ、ただそれだけなのに、いちいちその単純な現実を、言語によって粉飾するのが学問に携わる者どものゴミさである。よってここで私はスピンという言葉を、あえて「回る」という、幼稚園児でも使う言葉に置き換える。

 電子は原子核のまわりを回っている。しかしその回り方は誰にも分からないということがハイゼンベルグの不確定性原理によって分かってしまった。それは横に置いておく。スピン量子数などという、人を警戒させる言葉がある。それは決まって2分の1か、マイナス2分の1である。それがなぜなのか、大学で習ったか習わなかったかも忘れたが、私はなんとなく理解してしまった。何も特別なことではない、ただ単純に「そういうことですか」という感じである。またしてもyoutubeで説明することとする。ここでは説明しない。教科書に書いてあるかもしれないし、授業で習うかもしれない。もしかしたら私の思いつきが間違っているかもしれない。なので、自説をあえて書かないことにする。勿論youtubeでの言及も自説なので、その注釈は加える。


 ***


 重要なのは、美しい物を手に入れてまじまじと、舐め回すように見ることである。それ以前に、美しいという感性を持ち合わせない人間は科学全般に不向きである。とはいえ彼らが科学をできないということではなく、むしろそういう者が得意である場合も多く見受けられる。特に工学部のデキる連中は、あまりにも美に対する意識が薄い。だから工学部のやつらが嫌いなのだ。実効性が甚だ疑わしい無用な研究を、さも全世界を劇的に変えるかのように謳って誇大広告をまき散らし、どのように変えるのか、あるいはそもそも変わるのか、誰も分からないのに自分だけ分かったようなドヤ顔をして、その上綺麗なスーツやメガネでおめかしをして、地に足のついていないような「信頼感」をもぎ取って、果ては裏金や談合に加担していると予想している。社会が良くならない理由の源流をたどっていくと、科学技術が異常な方向へ進展している実態がきっと見出され、それが大きな要因になっているということを万人が知る日が来ると思う。


 私たちは一定の審美眼を養う必要がある。それをできる人は、ぜひとも大学に入学して1、2年が経ったときに喜んで休学を選択すべきである。小中高大とエスカレーターで進路を進んできた自分を一度疑って、実はとっくの昔に錆び切った軋むばかりの自分が乗ってきたエスカレーターの、その外にある世界……すなわち見たこともないレベルに素晴らしくて面白い自然界に目を向けることが(少なくとも10回は)必要だと思う。

 

 物理法則と人生との関連性を疑うこともまた必要だろう。そして、証拠はないけれども物理法則を無理矢理に人生の経験則と照らし合わせて共通部分を発見したり作ったりするのが楽しい。理論を信奉するだけの科学者は「証拠を出せ」と言うかもしれないが、仮に証拠を出したとて、その証拠自体が既存の別の証拠に基づいているか明瞭にせねばならない。それを延々繰り返していくうちに、(不確定性原理ではないけれども、)なんだかあやしい雰囲気になってくると思われる。なぜならば物理法則自体が完全に神であるなどと証明した者は誰もいないからである。行きつく先は無限大の先であり、人間など手も足も出ない不可視領域であろう。だから物理法則と人生の法則を関連づけても、よいと思う。


 *


 10代、20代、あるいは30代も、学校や塾などで詰め込み教育しか受けずに、余暇はゲームかxvideoかラインかインスタかyoutubeで時間を過ごすだけの機械人間ばかりではないだろうか。さすがにそれは言い過ぎだとしても、そういう奴が威張って他人をバカにして、無用な科学技術を宣伝して金儲けに走っている気がする。そしてきな臭い政治屋とつるんでカネを回し、社会をますます劣悪で貧困な環境に落とし込んでいる気がする。結果、日本はいつの間にか北朝鮮と大して変わらないような国になっているとさえ思える。

 審美眼。これが重要なキーワードだと私は本心から思う。

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