「月が綺麗」と君言ふならば

 京の都を拠点とする弱竹なよたけ輝夜かぐやが東京へ上ったのは、自著が賞に選ばれてのことである。赤坂のホテルでの授賞式に顔を出したものの、人に酔ってしまい祝賀会を早々に辞した。重い着物を脱ぎ捨てて身軽なワンピースを纏うと、スーツケースを引きずって夜の都会を彷徨った。

 途中、人まばらな路地に置かれたネオンの看板に誘われて、輝夜はバーに立ち寄った。落ち着いた店内で、カクテルを一つ注文する。グラスを差し出された頃、店に入ってきた大男に妙に惹きつけられて、輝夜はその男に声を掛けた。男から声を掛けられることはあれど、輝夜自ら声を掛けることは滅多にないことだった。

 その男は角崎カドザキ雪虎ユキトラと名乗った。聞けば、ここ一年ほどの記憶しかないのだという。今名乗る名前も、未来の年月が刻まれた身分証らしきものを由来とし、真名であるかは判らぬとか。

 実に興味深い人物であったが、輝夜はグラスが空くと席を立った。もとより一息吐くために寄っただけだった。名残惜しくはあるが、あまり酔ってしまっては宿に辿り着くまでが危うくなる。輝夜がいとまを告げると、ユキトラは駅まで送ると申し出た。輝夜は有り難く好意を受けることにした。


 ビルの合間より望月が覗く。人を炙るが如き昼間の暑さは緩んでいたが、アスファルトを駆ける風はぬるかった。ユキトラは昼間に興じたというスポーツの魅力をとくと輝夜に聴かせていたが、ふと夜空を見上げると、こう言った。


「月が綺麗ですねぇ」


 途端、文士としての輝夜が身構えた。輝夜は頭二つほど高い男の巨躯を見上げる。『月が綺麗ですね』。彼の文豪夏目漱石が異国の愛の告白をそう訳したという逸話がある。朗らかで純朴そうなその男がそれを引っ張り出してきたことに意表を突かれ、輝夜は少々苦い想いを味わった。


「今宵月が出るとは、思いもしませんでした」


 溜め息を殺しながら答えを返すと、ユキトラはTシャツがはちきれんばかりの胸板越しに輝夜を見下ろした。目がまるく見開かれている。


「そうですか? 今日は気持ちいいほど晴れていたのに」


 どうやら穿うがち過ぎていたようだと輝夜は我が身を恥じた。出逢ってまだ一刻も立たぬ間柄で愛の言葉は重すぎることに、ようやく思い至る。

 言い訳を検討した末、輝夜は己の誤解を白状した。ユキトラは豪快に笑い飛ばす。嫌みや嘲りのない、輝夜の恥を吹き飛ばすような気持ちの良い笑い方だった。


「なるほど、それで。そういう逸話があるのは知っていますが……でも、言葉はシンプルに使うものでしょう」


 その言葉は、輝夜の琴線に触れた。如何に言葉を巧みに操るか、そのことばかりに思いを回してきた輝夜には、思いも寄らぬ言葉だった。ときに歌に。ときに詩に。殊に恋の駆け引きに直接的な言葉は疎まれるものだと思っていた。

 しかし、率直な言葉はこれほどまでに胸を打つことを、輝夜は今実感した。『月が綺麗』というユキトラの言葉をそのままに受け取ると、まるで硝子玉を光に透かしたような素朴な美しさがそこにあるように感じられる。

 輝夜は我が身を振り返る。これまでに求婚してきた男たち――果たして自分は、彼らの言葉を率直に受け取ったことがあっただろうか。


『かぐや姫』。それが輝夜の前身だ。現世うつしよでのこの筆名は、過去に由来してのことである。日本に住む大多数が知っているだろう物語の通り、かぐやは数多の男から妻問いを受け、無理難題を押しつけては撥ね除けてきた。最後に残った男たちはいずれも色好みと名高ったこともあり、彼らの言葉が上辺だけのものとかぐやには感じられたし、最後には僅かばかりの情を抱いた帝でさえ、はじめは権力を餌にした。純粋な想いを真っ向からかぐやにぶつけてきた者は、誰一人としていなかった。

 ――果たして本当にそうだったのだろうか。自らが思い込みに捕らわれていた可能性を、輝夜は今考え始める。自らの高慢さが言葉を曲解した可能性は、本当にないのだろうか。

 千年の時を経た今、悔悟は詮無きことである。しかし輝夜は自らを憂えずにはいられなかった。それが為人ひととなりに寄るものと思われて。


「それは、カドザキ様の経験に寄るものでしょうか」


 過去の世は、婉曲した言葉が好まれていた。では、未来はどうだろう。輝夜は未来の証票を持つ男を窺い見た。時が流れるにつれ、大仰な言葉は削ぎ落とされていくのだろうかと、輝夜は先の時代に思いを馳せる。


「さて。私は記憶がありませんからね」


 ユキトラは肩を竦める。そうであった。あまりに悲壮感が見えぬので、つい彼の境遇を失念してしまう。


「ですが、私自らの言葉であることは、断言できますよ」


 輝夜は胸を震わせた。決して雅な言葉ではないのに、彼の言葉は真っ直ぐ胸に届き、月の光の如く冴え冴えと染み渡る。それがまた、身を委ねたくなるほどに心地良い。しかもそれが、彼自身から発露されるものであるなんて。

 男性の言葉に心揺さぶられたのは、これがはじめてのことだった。


「わたくし、もっと貴方とお話ししたく存じます」


 ユキトラは戸惑いを見せた。輝夜の言葉をどのように受け取れば良いか、思いあぐねているようだった。漱石の逸話がユキトラに無用な警戒を抱かせてしまったようだった。


「言葉はシンプルに。貴方様のお言葉でありましょう」


 それならと、男は純然たる笑顔を浮かべて承諾した。

 東のみやこと西の京。離れた場所に居を構える二人が頻繁に対面するには無理がある。ユキトラはプリペイド式携帯電話の番号を輝夜に伝えた。通話とメールのみのやり取りしかできないと申し訳なさげにしていたが、フィーチャーフォンしか扱えぬ輝夜には、無用な気遣いだった。


 駅で切符を購入し、改札付近で別れを告げる。切符を通した先で振り向けば、彼は笑顔で小さく手を振った。輝夜は一礼し、電車のホームへと下りていく。電車待つ人混みの中で、輝夜は遭逢そうほうの名残りに酔った。

 再びまみえるときがあるだろうか。ようやく来た電車に揺られながら、輝夜は早速架電の口実を探す。

 心躍る帰途、車窓から望む月は綺麗だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る