「月が綺麗」と君言ふならば
京の都を拠点とする
途中、人まばらな路地に置かれたネオンの看板に誘われて、輝夜はバーに立ち寄った。落ち着いた店内で、カクテルを一つ注文する。グラスを差し出された頃、店に入ってきた大男に妙に惹きつけられて、輝夜はその男に声を掛けた。男から声を掛けられることはあれど、輝夜自ら声を掛けることは滅多にないことだった。
その男は
実に興味深い人物であったが、輝夜はグラスが空くと席を立った。もとより一息吐くために寄っただけだった。名残惜しくはあるが、あまり酔ってしまっては宿に辿り着くまでが危うくなる。輝夜が
ビルの合間より望月が覗く。人を炙るが如き昼間の暑さは緩んでいたが、アスファルトを駆ける風は
「月が綺麗ですねぇ」
途端、文士としての輝夜が身構えた。輝夜は頭二つほど高い男の巨躯を見上げる。『月が綺麗ですね』。彼の文豪夏目漱石が異国の愛の告白をそう訳したという逸話がある。朗らかで純朴そうなその男がそれを引っ張り出してきたことに意表を突かれ、輝夜は少々苦い想いを味わった。
「今宵月が出るとは、思いもしませんでした」
溜め息を殺しながら答えを返すと、ユキトラはTシャツがはちきれんばかりの胸板越しに輝夜を見下ろした。目が
「そうですか? 今日は気持ちいいほど晴れていたのに」
どうやら
言い訳を検討した末、輝夜は己の誤解を白状した。ユキトラは豪快に笑い飛ばす。嫌みや嘲りのない、輝夜の恥を吹き飛ばすような気持ちの良い笑い方だった。
「なるほど、それで。そういう逸話があるのは知っていますが……でも、言葉はシンプルに使うものでしょう」
その言葉は、輝夜の琴線に触れた。如何に言葉を巧みに操るか、そのことばかりに思いを回してきた輝夜には、思いも寄らぬ言葉だった。ときに歌に。ときに詩に。殊に恋の駆け引きに直接的な言葉は疎まれるものだと思っていた。
しかし、率直な言葉はこれほどまでに胸を打つことを、輝夜は今実感した。『月が綺麗』というユキトラの言葉をそのままに受け取ると、まるで硝子玉を光に透かしたような素朴な美しさがそこにあるように感じられる。
輝夜は我が身を振り返る。これまでに求婚してきた男たち――果たして自分は、彼らの言葉を率直に受け取ったことがあっただろうか。
『かぐや姫』。それが輝夜の前身だ。
――果たして本当にそうだったのだろうか。自らが思い込みに捕らわれていた可能性を、輝夜は今考え始める。自らの高慢さが言葉を曲解した可能性は、本当にないのだろうか。
千年の時を経た今、悔悟は詮無きことである。しかし輝夜は自らを憂えずにはいられなかった。それが
「それは、カドザキ様の経験に寄るものでしょうか」
過去の世は、婉曲した言葉が好まれていた。では、未来はどうだろう。輝夜は未来の証票を持つ男を窺い見た。時が流れるにつれ、大仰な言葉は削ぎ落とされていくのだろうかと、輝夜は先の時代に思いを馳せる。
「さて。私は記憶がありませんからね」
ユキトラは肩を竦める。そうであった。あまりに悲壮感が見えぬので、つい彼の境遇を失念してしまう。
「ですが、私自らの言葉であることは、断言できますよ」
輝夜は胸を震わせた。決して雅な言葉ではないのに、彼の言葉は真っ直ぐ胸に届き、月の光の如く冴え冴えと染み渡る。それがまた、身を委ねたくなるほどに心地良い。しかもそれが、彼自身から発露されるものであるなんて。
男性の言葉に心揺さぶられたのは、これがはじめてのことだった。
「わたくし、もっと貴方とお話ししたく存じます」
ユキトラは戸惑いを見せた。輝夜の言葉をどのように受け取れば良いか、思いあぐねているようだった。漱石の逸話がユキトラに無用な警戒を抱かせてしまったようだった。
「言葉はシンプルに。貴方様のお言葉でありましょう」
それならと、男は純然たる笑顔を浮かべて承諾した。
東の
駅で切符を購入し、改札付近で別れを告げる。切符を通した先で振り向けば、彼は笑顔で小さく手を振った。輝夜は一礼し、電車のホームへと下りていく。電車待つ人混みの中で、輝夜は
再びまみえるときがあるだろうか。ようやく来た電車に揺られながら、輝夜は早速架電の口実を探す。
心躍る帰途、車窓から望む月は綺麗だった。
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