祓う手を伸ばして

 出張の途中、昼食のためにパン屋に入ると、イートインスペースに幸薄そうな娘を見かけた。惣菜パンを美味しそうに食べているのだが、なにぶん纏うが悪い。タールのようなベタつきと煤のようなモヤつきを兼ね備えたオーラが彼女を取り巻いている。

 これはまずい、と椿樹つばきは思った。手早く会計を済ませると、偶然を装って彼女の隣の席を取る。明太子パンに手をつけてそっと窺えば、食事に夢中になっている姿が見えた。その姿が黒く霞んでいく。椿樹は眉根を寄せて逡巡した。余計なお世話。不審者。そんな言葉が頭をよぎるが、この不穏な雰囲気を見過ごすことはできなくて、結局椿樹は口を開いた。


「あんた、霊が憑いてるぞ」


 ぶっきらぼうなのは、さがだった。社会人になって半年以上、周囲からも指摘されているが、愛想の振る舞い方が分からない。会社の人間に顔をしかめられてもさほど気にならないが、こういうときはさすがに悔やまれる。

 娘は、きょとんとこちらを見た。肩までの髪が波打っていて、お、と思うような色気があった。だが、見蕩れるにはやはりこのモヤが気になる。椿樹がまじまじと見れば見るほど、彼女の顔は黒く塗りつぶされていく。


「えっと……私ですか?」


 穏やかで、よく通る声だった。椿樹を気味悪がることもなく、素朴な様子で首を傾げている。良い子だ、と思った。それだけに哀れに思う。に取り憑かれているなんて。


「そう、あんただ。ろくでもないものに執着されてる。……今に、不幸な目に遭う」


 彼女は目を瞬かせる。パンを食べる手が止まり、ぼうっと視線が宙を彷徨った。だが、彼女には何も視えない。椿樹だけが、この悪霊を捉えている。


「人間の男だな。あんたと同じか……年下か? まだガキだ。嫉妬……独占欲か? まるで自分のものだと主張しているみたいだな」


 不思議なことに、黒いモヤの向こうで娘の表情は驚きからだんだんよろこびへと移ろいでいった。椿樹は目を瞠る。彼がこれまで霊を視て、そんな顔を見せた者はいなかった。誰もが椿樹を気味悪がり、おののき、忌避したというのに。


「もしかして、先輩ですか?」

「先輩?」

新藤しんどうたくみ先輩。高校のとき、付き合ってたんです。卒業前に交通事故で亡くなってしまったんですけど」


 恋人と知って、腑に落ちた。だが、受け入れられはしなかった。彼女の反応を見るに、生前は良い関係を築いていたのだろうが。

 この禍々しい気配はなんだ。まるで彼女を奈落へと引きずり込まんとする悪意は。――それは、恋人に向けるものなのか。


「……そっか。先輩、私と一緒に居てくれてるんだ」


 愕然とする椿樹の前で、娘は幸せそうに微笑む。光に揺らぎ、微風に流されてしまいそうな笑みだった。

 黒いモヤがさわりと揺れる。蛇のようにとぐろを巻いた影が娘を抱き寄せるように包み込むと、人型の上半身をこちらに向けて優越に目を細めた。

 椿樹は焦燥に駆られる。食べかけのパンをトレーの上に落とし、がたりと椅子を鳴らして娘へと身を乗り出した。


「あんた、このままじゃ死ぬぞ!」


 自制の余裕もなく、声を張り上げる。周囲がこちらに注目する気配がしたが、椿樹はそれどころではなかった。どうにかしなければ。そればかりが頭にあった。


「……俺なら救ってやれる」


 椿樹は低くゆっくりと告げた。娘は真っ直ぐに椿樹を見つめる。


「こいつを祓うことができる。あんたは昔の恋人から自由になって、幸せに生きることができるんだ」


 だから、と説得しながら、椿樹は娘がそれを望むことを切実に祈った。

 しかし。


「いいです」


 彼女は静かに首を横に振る。椿樹は座っていながら、足元が崩れていくような感じがした。


「このままで。私はそれで、構いません」

「でも――」


 このままでは死んでしまう。椿樹は確信していた。悪霊がそれを決心している様を、今まじまじと見せつけられていた。

 それなのに、彼女は椿樹の手を振り払う。


「心配してくださって、ありがとうございます。私は大丈夫ですから」


 ペコリと頭を下げて、彼女はテーブルの上を片付けはじめた。食べかけのパンはビニール袋に入れて、鞄にしまい込む。椿樹から逃れるため、食事の途中で立ち去る気だ。


「……待て」


 ロングスカートの裾を靡かせて椿樹の傍らを通り抜ける娘の腕を掴まえた。骨しかないのではと思わせるほど、その腕は細かった。


「名前と連絡先。教えろよ。何かあれば、相談に乗るから」


 スーツのポケットからスマートフォンを出す。片手でメッセージアプリを起動すると、友だち申請画面を彼女の眼前に突き付けた。


「俺は都築つづき椿樹。ただの会社員だが――お祓いみたいなこともできる」


 娘はじっと真剣な様子で椿樹の携帯画面を見つめ、やがて鞄から自分のスマートフォンを取り出した。淀んだ空気の中で、桜色の合皮の手帳ケースが柔らかく映る。


川崎かわさき奈都美なつみです。大学生です」


 かしゃり、とカメラのシャッター音。椿樹のコードが読み取られた。か細くも糸を繋いだ。食いしばった歯の隙間から、安堵の息が漏れる。


「……助けてもらいたくなったら、連絡しますね」


 スマートフォンを片手に彼女は微笑んで、もう一度丁寧に頭を下げた。それからトレーを店に返却して、自動ドアの向こうに消えていく。

 椿樹は椅子の上で、へなへなと力を抜いた。背を丸めてテーブルに体重を預け、手の傍にあった紙コップの中身を呷る。口の中が一段と苦くなった。


「〝助けてもらいたくなったら〟って……」


 自分が奈落に落とされることを見越しての台詞だった。亡き恋人が自分に危害を加えるはずがないと信じているのではない。恋人になら殺されても良いと思っているのだ。

 なんて一途で破滅的なのだろう。

 あまりに痛々しくて、椿樹は見ていられなかった。


「……解放してやれよ」


 一人残されたイートインスペースで、椿樹は声を絞り出す。コーヒーの紙コップが手の中で形を変えた。

 携帯電話が震える。画面を見ると、朗らかに歌う可愛らしい鳥のスタンプがあった。発信元は〝川崎奈都美〟。

 まだチャンスはある。椿樹は携帯電話を握り締めた。彼女からあいつを引き離そう。なんとしても彼女を救おう。椿樹の胸の内で決意が固められていく。


 椿樹と〝先輩〟の、戦いの火蓋が今切って落とされた。

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