探偵・銀音雷香の解決できない一事件
夕刻。
刻々と闇が迫っても、雷香は動かない。太陽にも置き去りにされた頃、ほうけた彼女の背後に忍び寄ったのは一匹の猫だった。黄味がかった灰毛に黒縞模様。サバトラ猫。貫禄のある顔を訝しげに顰め、にゃあ、と低く鳴くと、雷香はようやく反応した。見事な白髪のポニーテールを揺らして振り返る。すべてを見通さんとする鋭い瞳が、丸く見開かれた。
「あれ、猫ちゃん。どこの子だろう。どうかしたのかにゃ?」
まだどこかぼうっとしている雷香の隣に、初対面の猫は馴れた様子でゆっくりと近寄り腰を下ろした。首を傾けてまだ若い娘を見上げる様は、「お前こそどうした」と語りかけてくるかのようだった。
「もしかして、心配してくれてる? 参ったにゃー」
わずかに自嘲し、膝を抱えた腕に顔を埋める。少し躊躇い、まあ猫なら良いか、と雷香はもやついた胸の内を語り出した。
銀音雷香は、探偵だ。その実力・知名度はさておいて、彼女は三ヶ月前、一つの事件を抱え込むことになった。身元不明の青年の身辺調査だ。
ブレード・グランドゥールと名乗るその青年。年齢は十八だという。名前だけでなく、見た目も金髪碧眼と異国人じみていた。漫画などで騎士が着ているような服装だったので、雷香はコスプレイヤーを疑った。出身を尋ねると、『ファラシア』と知らない地名が返ってきた。胡乱なことこの上ないなと思ったら、更に異世界から来たなどと言う。彼が本気だと理解していたからこそ、雷香は頭を抱えた。数多の人間を見てきた彼女の眼は、彼の実直な人柄を見抜いていたのだ。
とはいえ、問題が解決するかは別問題。彼の身元は結局分からなかった。帰る場所も、行く場所もない。
「そしたら、事務所に置くことになっちゃって」
『自分は騎士だから、用心棒くらいにはなれる』と本人からアピールされた。修羅場の経験もある雷香には不要だったが、彼の哀れな境遇を思うと突っぱねることもできなかった。衣食住の提供と小遣い程度の給金で、助手として雇っている。
「それで?」
宵闇に浮かび上がる渋い声に促され、雷香は溜め息を吐く。
「うん、まあ……それから三ヶ月、仕事を手伝って貰いながら、一緒に過ごしてきたんだけどね」
ブレードの健気さと純粋さに、すっかりと絆された。力になりたくて、より真剣に異世界について調べた。どんな嘘紛いな情報にも飛びついて、検証して。
「で、とうとう見つけちゃったわけですよ。異世界に行く方法」
過疎化が著しい山村を拠点とした新興宗教が、怪しげな儀式を企てているというのだ。それがどうも、〝異世界への道を開く〟というものであるらしく。
その世界がブレードの故郷だとは限らないけれど、何かの手がかりにはなるはずだ。雷香はそう確信しているのだが。
「でも……言えなくて」
何がブレードのためになるか瞭然としていたのに、雷香は手がかりを掴んだ事実すら伝えられていない。言おう言おうと決心しても、彼の顔を見ると不思議と言葉が詰まる。
「私、どうしちゃったのかな。目の前に困っている人がいるのに」
雷香はこれまで、探偵として依頼人に寄り添うことを信条としていたというのに。今回初めて、自らの信条に反することをしている。それがまた、彼女の心をもやつかせていた。
「なんてことはない。ただの恋だ」
「いや、恋なんてそんないいもんじゃあ……え?」
ぱたぱたと顔の前で振っていた雷香の手が止まる。ば、と隣の猫を振り返った。
「ね、ね、ね、猫が喋った!?」
「今更か」
ふん、と鼻を鳴らし、猫は二股の尾を揺らす。猫又というやつか。生まれて初めて見る妖怪に、雷香は絶句する。
「異世界の存在を前に、猫が喋るくらいどうということはあるまい」
「そう言われると、そうかもしれないけど……」
説得されてあっさり受け入れてしまうのは、やはり異世界のことがある所為か。緊張に伸び上がった背を、雷香はしおしおと曲げた。
「ようはお前は、その男と離れがたいのだろう」
猫の言葉に、雷香は呻いた。本当に恋かはさておいて、そこは否定できなかった。
「なら、話は簡単だ。結婚しろ。子を作れ」
「は⁉」
セクハラ発言にドン引く。
「子がいれば、男もお前を置いて離れるわけにはいかんだろう」
「いや、そんな前時代的な……」
雷香はこめかみを押さえた。子どもを男の枷にする発想も受け入れ難いし、そもそも離婚が自由な現代ではあまり意味をなさないし。
だが、目の前の化猫は「そうしろ、そうしろ」と雷香を促す。
この老害をどうするかと、雷香が頭を悩ませたとき。
「ライカ!」
三ヶ月で聞き慣れた声に、雷香の肩が跳ねる。振り向けば、そこには話題の青年がいた。暗闇の中でも金の髪が目立つ。
「ブレード⁉ どうしてここに?」
「帰りが遅いから、探しに来たんだ」
同職の亡き父のスーツを着た彼からは、それでも騎士らしさが垣間見えた。頼もしくもあり、心配してくれたのが嬉しくもあり。
「この時間に、女性が一人で出歩くのは危険だ。さあ、一緒に帰ろう」
ブレードは座り込んだ雷香に手を差し伸べる。反射的にその手を取りかけたとき、よりによって猫の言葉が頭に浮かんだ。恋、結婚、子作り。私が、ブレードと?
雷香の頭はたちまち沸騰した。咄嗟に手を引っ込めて、熱くなった頬を押さえる。
「どうかしたのか?」
挙動不審に陥った雷香の顔にブレードが近づいた。
「う、ううん。なんでもないっ!」
雷香は勢いよく立ち上がる。ビシッと不自然なまでに伸びた背筋。ロボットのようにぎこちなく手足を動かして、帰ろうと仮初の助手を促す。
首を傾げつつも大型犬のようについてくるブレードに胸を撫で下ろしつつ、雷香は背後をちらと振り返った。あの猫がこちらを見て意味深に笑っているのが見えた。口の中に苦いものを感じつつ、彼の横が心地良いのも否定できなくて、雷香はその可能性を考えはじめる。
とりあえずまだ、〝情報〟については黙っていようかな、と思った。
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