第5話 ヘアミスト
「あれ?」
心臓に悪い買い物から無事に帰還し、のんびりとくつろぎつつ酷使された心臓を休めていると、先にお風呂に入っていた美晴さんが風呂から上がったようで、居室に入ってきた。
そして、すぐに違和感を感じているのに気がつく。居室の扉が開くと同時に、僕の嗅ぎ慣れた匂いとは違う匂いが美晴さんからしたのだ。
買い物には付き添っていたが、香水なんて買っていなかったと思う。
何の匂いだ...?
そんな僕の考えを見透かしたかのように、美晴さんはニヤリと笑って僕の肩に肘をかけると、耳元でささやくように僕に話しかけた。
「気づいたかい?奏汰少年よ」
「なにに?あと、その口調はなに」
”気づいた”というのは匂いのことだろうけど、ここで素直に応えようものなら「私の匂い嗅いでるのぉ?いやらし〜」といった具合に、からかわれることは間違いない。
美晴さんはテンションが山の天気のように変わるし、それに合わせて口調も表情も、わかりやすく変わる。
今のは僕をからかおうとしている。
これは昔から変わらないからよくわかる。
僕があくまで気づいていないフリをしていると、美晴さんは少し不服そうにむくれた。
「女の子の変化に気が付けない男の子はモテないんだよ!」
「モテなくて結構です!!」
というか子どもの頃、一番近くにいた異性が美晴さんだっただけに、あまり異性に好意を持つことがない。
きっと、女性に対するハードルが上がっているのだろう。
モテないくせに、なんて贅沢な悩みだ。
そんなふうに思考をあらぬ方向に飛ばしていると、美晴さんは今度は僕の首に抱きつくようにして言った。
「とか言ってぇ、本当は気づいたんでしょ?」
美晴さんの顔がすぐそこまで近づく。
耳の先に吐息がかかって、ものすごく顔が熱くなるのを感じた。
せっかく休めた心臓が、また忙しなく動いている。
同時にさっきかすかに感じた匂いが、今度ははっきりとわかった。
「オレンジの、香り...?」
「そう!」
美晴さんは嬉しそうにそう言うと、僕が座っているソファーの隣に座ってきた。
こういうときの美晴さんの笑顔は、少し子どもっぽくて可愛い。
「中学のときにさ、私が柑橘系のヘアミスト使ってた頃、奏汰が「この匂い好きだなぁ」って言ってたのを思い出してさ。同じのを買ってみたんだよね。やっぱり、同じ部屋にいる人からは好きな匂いがした方が良いでしょ?」
「あぁ、ヘアミストだったんだ。この匂い」
「そうだよぉ。で、どう?」
「どうって、別に...いいと思うよ。でも、そこまで気を使ってもらわなくても...」
僕がそう言うと、美晴さんは困ったように笑った。
そして少しうつむくと、ゆっくりと口を開いた。
「私さ、会社、辞めたんだ」
「え?でも、叔父さんはうまくやってるって...」
「お父さんにはね、嘘ついたの。心配かけたくなくて。......だから辞めたことも、言ってない」
「......そうなんだ」
なんて返したら良いかわからない。
本人はなんでもないように話しているけど、会社で何かがあったのだということは見ればわかる。
そうやって黙っていると、美晴さんは苦笑交じりに続けた。
「私、社宅に住んでたからさ、追い出されちゃった。で、お父さんが言ってたことを頼りに奏汰の家を探して、ここに来たんだ」
そこまで言うと美晴さんは、真っすぐに僕の方を見た。
その顔はいままでに見たことがないくらい真剣な表情で、美しかった。
「まだ、泊めてもらって1日目だけどさ。これから何日ここに居ていいのかもわからない。だけどね、少なくとも奏汰に迷惑はかけたくない。あわよくば、泊めてよかったって思ってもらえるようにしたい」
そうして美晴さんは、さっきとは打って変わって優しい笑みを浮かべた。
「だからさ、これは気遣いなんかじゃない。私の自己満足だよ」
そう言って僕の方を見つめる。
綺麗だと思った。
からかっているときの可愛らしい笑顔とは違って、やっぱり歳上なんだなと思うような、美しい笑み。
きっと、会社で何かがあって逃げてきたんだろう。
そしてその逃避行は、多分続いている。
考えすぎかもしれないが、美晴さんはまだ何か抱えている。漠然とそんな気がした。
でもそれは多分、その時が来ればわかること。いまは美晴さんがいるこの生活を純粋に楽しみたい。そう思った。
「あの、美晴さん。......ありがとう。でも無理はしないでね」
僕がそう言うと美晴さんは真面目な表情のまま、でもその目尻からは涙がこぼれたいた。
「ありがとう...。奏汰...ごめん...泣いちゃって......」
そう言って、美晴さんはまた綺麗な顔で笑った。
「......気を使わなくて良いとは言ったけど、からかいは控えてもらえると助かるのですが......」
「......それは無理!」
そう言って、可愛らしく笑う美晴さん。
これからもしばらく、賑やかな生活が続きそうだ。
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