第4話 下着
最悪だ。
今日は日曜日。ダラダラと過ごせる休日。
だったはずなのに!!
僕達のグループが担当しているプロジェクトに問題が発生したかなんかで、休日出勤をする羽目になってしまった。
そもそも今日は美晴さんの生活必需品を買いに行く予定だったので、もともとダラダラとなんて過ごせなかったのだが、どちらにせよ仕事より良いに決まってる。
しかも家に来客用の布団がなかったので、昨夜はやむなく一緒のベッドで寝たのだが、僕のベッドは当然シングルベッド。
すぐ隣で動く柔らかい感触が気になってしまって、なかなか寝付けなかった。
そんなわけで寝不足である。
加えて、仕事が入ったと聞いて朝からすねる美晴さんに事情説明をしていたので、会社につく頃にはもうボロボロだった。
結局、買い物は仕事が終わった後に行く事になったので、どうやら今日は休めそうにない。
会社につくと、既に数人がパソコンに向かって渋い顔をしていた。
気分が下がる。
ため息をつきながらデスクに向かってトボトボと歩いていると、後ろから誰かが近寄ってきた。
「元気なさそうな顔してますねぇ〜せ、ん、ぱいっ!」
その声に僕が振り返ろうとするのとほぼ同時に、声の主は僕に抱きついてきた。
僕は少しよろけながら、彼女を抱きとめるようにしてなんとか自立する。
彼女のさらさらの髪が揺れて、柑橘系のいい匂いがする。
声の主は安井湊。
僕が教育係を担当する女性社員だった。
最近新卒で入社したばかりで、大学生のノリというものの名残なのかたまにこうやって抱きつかれる。
正直、童貞には朝から刺激が強すぎるのでやめてほしい。
「おい、湊。やめろ」
僕は若干低い声のトーンで咎めるようにするが、彼女はにへっと気の抜けた顔で笑っていて、一向に放してくれる気配がない。
僕は半ば強引に湊を引き剥がすと、自分のデスクに向かう。
湊は「うぇっ」と間抜けな声を出して、傍にあった山崎さんの机にぶつかった。
山崎さんは驚いたようにパソコンから顔を上げると、状況を察したようで僕を睨んできた。
いや、悪いの僕じゃないですねん。
その日の夕方。
朝から後輩に抱きつかれたり、山崎さんに睨まれたりと散々だったが、なんとか仕事は終えることができた。
駆け足気味に、美晴さんと待ち合わせをしている駅に向かう。
結局美晴さんの持ち物はスマートフォンと財布、それに着ていた服だけで、他の日用品は新しく買うしかなかった。
駅に到着し、人混みの中から美晴さんを探すが人が多すぎて見つからない。
普段は車で移動しているから、日曜の駅がこんなに混んでいるなんて知らなかった。
僕はぶつかりそうになる人々を避けながら、スマートフォンのメッセージアプリを起動する。
その一番上に、今朝交換した美晴さんの連絡先が表示される。
MIHARUというシンプルなニックネームが美晴さんらしかった。
でもアイコンはプリクラの写真で、僕の知っている美晴さんならきっと猫の画像にする。
やっぱり9年間で美晴さんも変わっているんだなぁ
当たり前の事。
でも、少し寂しく感じているのはなぜだろうか。
そんなことを考えながら、何通かメッセージを送信しているが返信がない。
とにかく疲れている僕はこの人混みから抜け出したくて、人の少ない方へ流されるように歩いていた。
やがて人が少ない場所にたどり着き、一息つこうとした。
その時だった。
急にいい匂いがして、そして柔らかくて暖かい何かが僕に抱きついた。
本日2度目のシュチュエーション。
だけど、朝のよりもずっと鼓動が高鳴るのを感じた。
振り返らずともわかる。
「......何してるの?美晴さん」
僕が呆れ半分、照れ半分といった口調で問いかけると、彼女はニマリと笑って言った。
「ドキドキする?」
その目はさながらおもちゃを見つけた子どものようだった。
ドキドキしているかなんて、これだけ密着していればきっと分かっているだろう。
いつものからかいだ。
少しだけイラッと来ないことはないが、嬉しくもある。
どれだけの期間が空いて、どれだけ美晴さんの知らない一面が増えても、このからかいだけは変わらない。
それがたまらなく嬉しくて、さっき感じた寂しさはどこかへ消えていった。
それにしても、僕と同じ洗剤と同じシャンプーなのにすごいいい匂いがしたなぁ。
そんなことを思いながら、僕達は並んでデパートに向かうのだった。
一通りの買い物を済ませた僕達は、最後の店に来ていた。
女性の下着が売っている場所。
ランジェリーショップ。
美晴さんは最初に着てきていたワンセット以外に服を持っていない。
だからさっきまでは、服屋で部屋着やパジャマなどを買い足したのだが、その際に下着も買い足さなくてはならないことに気がついた。
僕にはさすがに女性の下着選びに同行する勇気はなく、帰ると言ったのだが、美晴さんが着いてくるように言って聞かないので、渋々着いて来たのだった。
そして今、僕は試着室の前にいる。
いや、気まずすぎるだろ!
当然だが客は殆どが女性なわけであって、店員さんだって女性だ。
そんな中、野郎がひとり試着室の前に前かがみになっているわけだ。
どう考えても不審者である。
「あのぅ、美晴さん?できれば早くしていただいて......」
「うん。ちょっと待って」
そんな会話を2、3回繰り返しているが、その実まだ15分ほどしか経っていない。
店内の目のやり場に困ってスマホで動画を再生しているが、試着室からの衣擦れの音が気になってしまって、全然内容が頭に入ってこない。
そうして動画が終わりかけた頃、試着室の中から美晴さんに呼ばれた。
そして、爆弾発言を投げかけられた。
「ねぇ、奏汰はピンクと紫、どっちが好き?」
「は?」
思わず僕は手に持っていたスマホを落としてしまった。
聞かれているのは、言うまでもなく買う下着の色だろう。
間違いなくいつものからかいだろうが、今回のは童貞には刺激が強すぎる。
明らかに動揺している僕だったが、カーテンで美晴さんから顔が見えないのを良いことに、なんとか冷静になろうと試みる。
そうしてカーテン越しに、僕をからかってニヤニヤする美晴さんの顔を想像して少しイラッとする。
ここは、至って普通に答えてやろう。
僕は冷静に、緊張で裏返りそうになる声を押さえつけながら試着室の美晴さんに言った。
「僕はどっちも好きだけど、美晴さんには紫が似合いそうだよ」
僕がそう言うと数秒の沈黙の後に、美晴さんは「そう」と小さくつぶやき、ゴソゴソと着替え始めた。
思ったより僕が動揺しなくて、つまらなそうな反応だった。
それからしばらくして試着室から出てくると、美晴さんは紫のレースが付いた下着の上下を僕に差し出した。
「え、これ僕が買うの?」
「お金は渡すから、会計してきて」
「これ、美晴さんがさっき試着したやつだよね?」
「うん。そうだよ」
今度ばかりは、僕も動揺を隠せない。
初恋の人とか関係なく、女性がつい数分前まで着ていた下着に触れるなど、できるはずがない。
そんな僕を見た美晴さんは、満足したようにニヤニヤとした笑みを浮かべ、レジへと向かった。
僕は呆然と美晴さんの後ろ姿を眺めていた。
そしてふと、美晴さんの耳の先が真っ赤になっていることに気がついた。
恥ずかしいなら、やらなければいいのになぁ。
とりあえず、さっきブラのタグから見えた”B”という文字は忘れることにしようと思う。
邪な気持ちではなく、今はただ純粋に可愛い美晴さんを見ていたかった。
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