第二章 魔法科学とジラソーレ

第一話

 首を垂れながら、とぼ、とぼと帰路につく。後ろではあざといくらいに小さい歩幅で、スリジエがジラソーレの背中を追っていた。メインのテントをすり抜けて、他の演者の居住地テントをすり抜ける。そして一番奥まったところに設置された緑色のテント―――薄く伸ばした月光に照らされたテントは黒にも見える―――の重たい入り口幕を開けた。

 ランタンの灯っていないテント内はひどく薄暗く、不気味だ。ジラソーレは帰宅直後のこの瞬間がとても苦手だった。真っ暗で息苦しい中、光を灯す道具を手探りで探さなければならない。

「ありゃ、暗いね」

 軽快な口調でスリジエはテント内を見回して、ジラソーレの隣を通り過ぎた。そして鏡台の上のランタンを見つけるや否や手を翳す―――すると、ぼっ、と鈍い音をたてながらランタンの芯に火が点いた。

 驚愕しながら彼の白いシャツを引っ張る。スリジエは首を傾げながら「何?」と疑問を零した。どう説明すればいいのか分からず、ジラソーレはとりあえずランタンを指さす。初めて会話をする相手なのに、大して広くもないテントの中で暮らさなければならない。心臓の奥が締め付けられるようにじくじくとして痛い。

 スリジエは幾許か沈黙を捕らえて、ジラソーレの疑問に思い当たったのか「ああ」と相槌を零した。

「僕、実は魔法が使えるんだぁ。と言っても、あまりにも魔力が少なすぎて兵士候補から外れて今に至るんだけどさ」

 ゆらりと金髪がオレンジ色に灯る室内で揺れる。彼の言動はあまりにも楽観的で、この国で生まれた人間じゃないような気さえしてくる。このフィオレニア王国の人間は幾度とない悪政のおかげというべきか、薄暗く粘着質な性格が多い。

 怪訝そうなジラソーレの表情を読み取ったのか、スリジエは口元に弧を描いた。

「そんな邪険にしないで、嘘じゃないよ。僕はジラソーレさんと仲良くなりたいし、役に立ちたいんだ」

 ぐい、と彼の顔が近づく。

「っ!」

 狭いテント内、片づける暇さえ与えられなかった宝の山たちが、ジラソーレの足を掬った。息を漏らす猶予すら与えられず、ベッドに倒れ込む。

 スリジエは驚愕したようにエメラルドの瞳を見開いて、そして慈愛の満ちた表情で眦を下げた。彼は足を投げ出したジラソーレの腰を跨ぐようにベッドに座り込む。

 ぎしり、とベッドが音をたてた―――蠱惑的なグリーンアイズが、ジラソーレを捉えて離さない。募っていた、彼に対する嫉妬心や猜疑心がすべて吸い込まれてしまいそうな、そんな心地がする。

 美しい相貌が近づいて、不意にサーカステント内での光景が思い浮かび、力強く瞼を下ろした。恐怖を誤魔化すように使い古されたシーツを握りしめる。そして―――鼻に笑い吐息がかかった。

「ふふ…、もうしないよ。冗談」

 ちゅ、と額に柔い唇が触れた。怒りと羞恥心でどうにかなってしまいそうだ。腹の奥に湧き上がる赤を誤魔化すように、スリジエの胸板を何度も叩く。目の端からは涙が溢れて、こぽりと零れ落ちた。彼はその光景に柔和な笑みを浮かべて「ごめんねぇ」と謝罪の言葉を零す。そしてジラソーレの栗色の頭を撫ぜた。

 ジラソーレの感情の波が落ち着いたところを見計らって、スリジエは隣に腰かけてベッドを叩いた。

「そういえば暫くはベッド一つで過ごすように、って、ユーリさんからの伝言。明日にはマノを発っちゃうでしょう?だから次の休息地であるベッナでベッドを買うみたい」

 思わず叫びそうになって、喉の奥で声がつっかえる。ジラソーレはベッドの端に身を寄せながら、警戒したようにスリジエを見つめた。

「何もそんなに警戒しなくても。安心してよ、大丈夫。何もしないから」

『む り!』

「えー、僕は知ってるよ。君の身体に受けてる、その”呪い”」

 作り物のような美しい顔が柔和な笑みを浮かべて、ジラソーレに迫る。そして唇のあわいに指を差し込んで、赤く熟れた舌を引っ張り出した。蛇がお互いに尻尾を噛み合うようにもつれている刻印。

 驚いた弾みに、ゆらゆらりと蜂蜜色の視線が揺らいだのを自覚する。蛇のような緑色の瞳が這うようにジラソーレの身体を眺めた。

「僕の家、こういうのに詳しい家だったから協力してあげれるよ」

 外の騒がしい雑踏が消えてなくなるくらい、スリジエの声が鮮明に鼓膜を揺らした。


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