歩く女 四

 そもそもどれほどの距離があるハイキングコースなのか、私は知らない。もしかしたらもう登山道から出てしまったんじゃないかしら。コースを抜けた先にある一般道で、通行する車両が水死体を見つけたらどうなるか。想像はしたくなかった。二度も死ぬようなひどい目にも遭わせたくない。


「部下の姿がないから、追ってくれているんだろう……彼から連絡もないから、おそらくまだどこかに……」


 いるはずね。足跡に残された腐臭があちこちに点在するから、匂いで追うこともままならない。けれど、足跡がないと水死体を追えないのが悩ましいところ。それに水を吸って自己融解した腐敗した体で、どれほどの速度が出るというの。歩くにしても、もうそろそろ追いついてもいいんじゃないかしら。


「うっ」と後ろの人が悲鳴を漏らした。振り向けば、その視線が差しているのは私のずっと先。


 つられて見れば、針葉樹林の合間に見えた。一歩一歩を確実ていねいに歩く、水死体の姿。あの膨張した姿カタチ、まさしく死体だった。肥満体の人間じゃない。黒みがかった青色の皮膚は、生きている人間には決してありえない色彩を帯びている。

 木道を蹴飛ばして、大きく右にうねるカーブを駆け抜けた。木々を避けて旋回した先に水死体、それを同じ速度で追う一人の警察官の姿があった。


「待って!」


 声をかけたら、振り返るのは警察官だけ。女が来たことに驚きを隠せずに目を見開いていた。それについては無視を決め込む。けれど、水死体も私の声は完全に無視だった。そもそも聴覚があるのかないのかさえわからない。


「一般人は立ち入り禁止だぜ、お姉ちゃん」

「医者よ」追いついた先で、彼にもネームプレートを見せつける。「検死に来たの。そしたら水死体が歩いて逃げたっていうじゃない」

「見てのとおりだ」


 水を吸った皮膚は、表皮と真皮で剥離している。そんなもろい皮に、内側からガスの圧力をかけられたらどうなるか。ぴりぴりと裂けた皮のすき間から、血や肉がどろどろと吹き出しては、腕や背中をすべっていく。脚から滴る血肉は、やがて足跡となってこの木道に痕跡を残していってくれた。


「なぜ、歩くんだ……」


 今にもぶっ倒れそうな顔色で追いついてきた、聖鷲さんの言葉がすべて。


 なぜ、歩く。


「彼、か、彼女、かもわからないが……何か、伝えたいことがあるのだろうか……」

「どうしてそう思うの?」


 倒れそうなその人に手を貸して体を支えながら尋ねると、首を傾げられた。本人にもわかっていないらしい。が、言葉は続く。


「逃げているわけでは、なさそうで……たぶん……」

「もっとはっきりしゃべってくださいよ、管理官殿。医者の先生だって聞き取れないでしょうが」

「……すまない」


 ますます小さくなるその人の言葉が、頭の中を反芻する。


 逃げているわけじゃない。

 ならばどうして、その水死体は歩くのか。


 臭気をかぎつけてやってきたハエが水死体の頭部をぶんぶんと飛びまわる。それがこちらまでやってきた。手で追い払う仕草をすれば、ハエはすぐに逃げていく。水死体はそんなこともしないし、気にもしない。動けるはずなのに、邪魔なハエを避けたりもしない。

 むしろ、手が見あたらなかった。水中で折れるか、どこかで失ってしまったのかしら。けれど見た限り、肩より下はある。無理やりひきつらせたせいで皮膚が破れているけれど、腕はある。後ろからだと見えない位置にある。


「あれくらい腐敗した遺体だと、ガスの圧力で腕は伸びたままなのよ。それがどうして、腕が伸びていないのかしら」

「なんでって、さあ」

「だって歩けるのなら、ハエを手で追い払ったっていいじゃない。目障りでしょう? そばをぶんぶん飛ばれちゃ。なんでやらないの」

「邪魔じゃないんだろ。死体にとっちゃハエも友達みたいな」

「あなた次にその軽口たたいたらぶん殴るからね」

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