歩く女 三
丸くなった格好で、その人は思い出したように口を開いた。
「ところで、君は……?」
「
「兄さんの……じゃあ、兄さんは来ないのか……」
なんですって?
「兄さん?」
「知隼兄さん、は……俺の、兄で……」
あの華やかな美貌を誇って、女が好きで女に好かれるから産婦人科を開業したとのたまっていたあの院長先生の弟が、この人? こんな昭和の文豪みたいな、今にも自殺しそうな陰鬱な人が、あの人の弟だと? 水死体が歩くより驚きだわ。
まあ、今はそれどころじゃない。顔の考察はあとでじっくり行わせてもらおう。
「ま、待ってくれ……」
立ち上がる私の白衣をつかむ姿は、まるで母親に置き去りにされないようにすがる子どもみたいね。巨体にも、バリトンの利いたその低い声にもまったくそぐわない仕草よ。
「まさか水死体が怖いから一人にしないでくれなんて言うんじゃないでしょうね」
「いや、いや……俺も行く……」
この人には驚かされてばかりだ。
「またぶっ倒れたいの? 正気?」
「倒れたいんじゃない……あんなもの、人目についたら」
「今のは訂正して」いくらなんでも聞き捨てならない。「あんなものとは失礼よ、遺体だってもともとは生きていた人間なんだから。敬意がないわ。そんな人を連れて行くのはお断りよ」
巨体が揺れる。前髪の隙間から見える唇が強く引き締まったから、たぶんぎょっとしたみたい。
悪い癖とはわかっている、自覚もある。でもどうしようもない。どんな理由であれ、死んだ人間に対して敬意を持てないような人は好きになれなかった。興味本位で腐乱死体を見たがる人種や、命がないのならもう人ではなく物扱いしようとするタイプ。そうした人間は数多くいて、そうした人間とは相容れたいとも思わない。
でも別にいい。問題は何もない。人は一人で死んでいくのだから、一人で生きていったってたいした問題じゃないでしょう。
「何よ、文句ある?」
「いや……君は、なんというか……」
「だから何よ。追いかけないといけないんだからはやく言って」
待ちきれないと地団太を踏む間に、その人は立ち上がる。倒れていた時点で巨体だとは思っていたけれど、とても背が高い。知隼先生でも一八〇センチ前後で大きい人と思ったけれど、この人はさらにプラス一〇センチはありそう。ハイヒールを履いていてめったにしない首の角度よ。それで気圧されて身を引いたら、木道の端っこをまたヒールが突き刺したらしい。がくんと体が落ちてバランスを崩しながら、次は私がぶっ倒れる番だったのかと――どんなに後悔をしても、揺れる視界は止められない。秋晴れの木漏れ日が、腐敗網のようにちらちら降りてくるのが見えた。
「大丈夫か……」
救ったつもりの人に救われた。木道に引き戻されてさらに気づく。腕だけを引っ張ったら痛いから、もう片手は背中にまで伸ばされていたこと。陰気そうに見えて、気遣いの塊みたいな人だった。
「あ、ありがとう」
「……水死体を、追わないと」
「そうね」どこまで逃げたか、そもそもなぜ逃げたのかわからないけれども。「でもあなた、また倒れるわよ。いいの?」
「……こらえる……兄さんならまだしも、女性を一人で行かせるわけにはいかないんでな……」
「ありがたいけれど私、守られるタイプじゃないのよ」
「警察は、民間人を守る義務がある……君も民間人だ……」
なるほど。知隼先生の身内なだけある、いい人ね。合意して、私が先導する。
でも数歩進んだ先で、そういえばと振り返った。
「知隼先生の弟さん、名前はなんて?
「……
しかし、仰々しい名前の兄弟ね。
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