歩く女 ニ

 うん?


「盗まれたなら盗まれたって正直に言うことよ。世間からバッシングは受けるでしょうけれど、正直に包み隠さず言う方がダメージは少ないわ」


「ほんとうっ」


 包み隠さずに言った結果、彼女の体が受けたダメージは深刻だった。でもそれは言葉によるダメージじゃなくて、言葉を話したことによるダメージということだし、かわいそうだから背中はさすってあげた。おう吐を繰り返すのは意外に体力を消耗して、人によっては腹筋が筋肉痛になることもある。


 でも、それが本当ってどういうこと。


「水死体がひとりでに歩いて消えたって言いたいの?」


 口元を押さえて、おう吐のつらさからこらえきれなかった生理的な涙を流しながら、彼女はうなずいた。うなずいて、唾液を吐き出した。さらさらとした唾液は野草にかかって、彼らにとっていい養分となることだろう。

 水死体も、滝つぼに沈んだまま誰にも見つからなかったら、そうなるはずだった。魚が住んでいれば餌となって、水草の養分となって、とろけだした体から流れ出た養分はこの大地の草木の栄養になったはずだった。

 でもそうはならずに発見されて、それ自体は人の営みとしては間違えていない。死んだ人間が発見された。死因は何か。それを特定するために、私が警察医として派遣されてきたのだから。


 彼女が指し示すのは、森林公園にあるハイキングコースの木道だった。中級者向けコースとなっている滝つぼで休憩を取ったら、引き返す人もいればそのまま進んで別な登山口へ出て行くコースもある。その後者の道で、どうやら水死体は森林公園から出て行こうとしているらしい。真実か、私が騙されているのかは図れないけれども。


「足跡があります……管理官たちが追いましたけど、でも、音沙汰がなくて」

「気絶しているんでしょうね」

「お願いします、なんとかしてください……」


 検死のためにやってきたのに、なんとかしてくださいと来た。医者が何科にでもなれるというのは有名な話かも知れないけれど、だからといってなんでも屋ではないのよ。これでも一応、今は婦人科医なのよ。

 それでもまあ、放っておくわけにもいかない。倒れている人数だけの救急車を要請して、木道に残されている足跡を追う。


 踏み出してわかったことは、とりあえずハイヒールで来るような場所じゃないってことだった。木道とはいえ作ったら作りっぱなしで放置されているせいで、四隅はとっくに腐食している。そこに運悪くピンヒールが刺されば、木道の傷は悪化した。うん、ごめんね。さらにツイストギャザーのワンピースに白衣というのも、検死をする人間としては正答でも登山をするとなったら大バカ者だった。どうぞ虫さん刺してくださいと言っているに等しい。ひとまず、いつどこで水死体に遭遇してもいいように、白衣にかませておいたバンスクリップで髪の毛をまとめあげる。


 木道に気遣いながら歩を進めていくと、進行方向に黒い人影が倒れていた。水死体か。それにしては、でも、細い。一般的に水死体はぶくぶくに太っている。あれは水を吸ったからだけじゃない。腐敗して、全身がガスによって膨張したせいもある。水に沈んでいた間はまだしも、ガスが充満してくれば浮上してくる。水死体が太っていると思われるゆえんだった。その腐敗がさらに進めば、自己融解によって黒ずみながら溶けていく。


 でも、そこに倒れている人間が黒い理由はそうじゃなくて、ただの衣服の色味によるせいだった。近づいてみると、背丈の大きな男の人。肩を揺すると、どうやら目が覚めたみたいでうめき声をあげた。きちんと生きている。仰向けなので、ついでに後頭部や首、背中を触らせてもらった。


「うっ、なん……なんだ……」

「倒れていたみたいだから、脳挫傷なりなんなり起こしていないか診ていただけよ。でも大丈夫みたいね」


 黒いスーツに光沢のある白いワイシャツ、そこにさらに黒いネクタイを重ねたらどう考えても喪服でしかないでしょうに、どういうセンスをしているのかまったくわからない。起きあがった姿を見れば、長くて黒い前髪のせいで顔がほとんど見えなかった。かろうじて右側の顔つきがうかがえる。下がり眉に一重、なんて幸薄そうなのかしら。


「すまない……追いかけたはいいんだが、死体が苦手で……」

「よく追いかけたわね」

「俺が来た頃には、もう逃げられていて……部下の説明する状況は、今一つ把握できていなかったんだが……ひとまず足跡を追って……情けないことに……」


 話すほどにどんどん縮こまっていって、ついには膝を抱えて丸く小さくなった。その巨体でそんな格好をして、上司が見たらこんな部下を持ったことを嘆くに違いないわよ。よく殺人犯の事後処理をする捜査一課にこんな人員が迎え入れられたわね。

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