狭間の上に立つ女

篝 麦秋

歩く女 一

 私はだまされたのかしら。


「遺体はどこよ、遺体は」


 周囲にうずまく――いや、うずくまる捜査員たちに問いただしたところで、返ってくる答えはなかった。それどころかいまだに吐瀉物を吐き出す若い警察官がいて、なんというか気の毒としか感想がないけれども、だからといってそれとこれとは別よね。


「まさか盗まれたなんて言わないでしょうね。だったらこんなところで手をこまねいていないで、探さないといけないでしょう。一体なんなのこのていたらくは」

「何人かが……」


 足下でおう吐としていた小さな女性警察官が、伏せた格好から根性で上体を起こす。どうやら一番話が通じやすそうね。彼女と話すことに決めた。

 すぐそばには滝つぼがあって、そこからもたらされる風圧がとても涼しい森林公園の敷地内。そこで遺体が見つかったから、検死行ってきて。雇われたばかりの病院で院長先生に頼まれて、車を借りて飛ばすこと十数分でこの現状。意味がわからなければ誰も説明をしてくれそうにない、惨憺たる有様の現場だった。

 それでも、ようやく口が利けるほど回復したらしい彼女の顔には、濡らしたハンカチを絞って押しつけるプレゼント。何するんですかと怒るくらいには回復したみたい。


「何も何するもないわ。私は検死を目的にやってきたのに、その目的がないんだもの。それなのに誰も何もしゃべらないどころか、げえげえ吐いてばっかり。警察でしょう? 遺体くらい見慣れているんじゃないの」

「ふつうの死体ならっ」


 叫んだのが悪かった。滝つぼのそば、苔むした緑の絨毯でうつ伏せていた彼女の体が腹部から波打つ。盛り上がりが首までやってくるも、その口からは何も出てこない。出すものは出し切って、胃液さえ吐き戻して、それでも止まらないおう吐はひどく苦痛よね。私だって鬼じゃないから、背中をさするくらいはしてあげる。


 ふうっふうっと荒い呼吸をするのは、何も彼女だけじゃない。ベテランと呼ばれてもいい老年の男性刑事ですら、この場では動けなかった。けれど意識がある分まだいい。新人警察官と呼んでも差し支えのない、私と同年代の青年に至っては気絶していた。仰向けのままだと吐瀉物がのどにつまって窒息死しかねないから、回復体位を取らせておく。

 だから、私より少し年下で、小柄で、それでいて女で、気絶せずにおう吐だけでなんとかこらえている彼女は、とても立派な警察官ね。将来が有望だわ。


「で、ふつうの遺体なら何? 何人かがなんなの? 力まないで、落ち着いて説明して」

「……水死体が、あがったんです……ここから……」


 彼女の指さす、滝つぼから。その遺体は、しかしどこを見渡してもない。引き上げたときに使用したと思われるブルーシートが池のふちに敷かれていたけれど、そこに付着しているものは水と枯れ葉、体からずるりとむけてしまった頭髪の一部分。そこから漂う腐臭がどんなにひどくても、念願叶って警察官になれた暁には慣れるしかないという環境に彼女たちは身を置いている。それでもこらえきれなかったのには、何か別の理由があるんでしょう。


 その辺はさておくも、しかし肝心の遺体がない。


「水死体でへばるほどあなたたちが不良警察官じゃないことくらいわかるわよ。何があったのかもう少し説明して」

「それが、歩いて……」

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