歩く女 五

 警察官に口封じを施せば、彼じゃないもう一人の警察官が口を開いた。


「手が、離せないんじゃ……?」


 前のめりの聖鷲さんが、口元を押さえる手を離せないように。


 そんな人を支える私の手が、聖鷲さんから離せないように。


 そんな私を心のより所としてつかんでいる聖鷲さんが、手離せないように。


 逃げているんじゃない。

 だとすれば……。


「ここにいて」


 警察官に聖鷲さんを押しつける。木道の上をまっすぐに歩く水死体を、木道から山道に降りて追い越した。パンプスがずぶずぶ沈むこの腐葉土の下にも、きっと長い時代を経るまでに忘れ去られた人の遺体が埋まっているに違いない。誰かに弔われた遺体かもしれないし、そうじゃないかもしれない。そうじゃない遺体だとしたら、かわいそうでしょう。


 人は一人で死んでいくのだとしても、でも、そのそばに誰もいてほしくないなんて言っていないはずだから。


 この水死体だって、きっとそうよ。


 ぐるりとまわって、遺体の真正面に立ちはだかる。真横に膨張はしているものの、上には伸びない。だから背丈はさほど大きくなかった。私よりも低いくらい。頭は丸坊主。水死体と腐敗の進んだ遺体にはよく見られる。頭皮が真皮から分離してずるりとむけてしまう現象。それから、ぱんぱんに膨らんだ胸部、腹部――そこに、手はあった。


 目を伏せる。腐臭の合間にわずかに漂うにおいは、幻嗅げんきゅうかもしれない。でも、この場にいる人間でわかる可能性があるのは、私しかいない。きっと。そうよ、間違いないわ。

 まぶたを開いた先にいる水死体が、ぴたりと立ち止まる。内側からかかる圧力によって目玉は飛び出し、魚の尾ひれのような神経繊維がかろうじて飛び出すのを防いでいた。舌もまた同様で、たらこのように腫れぼったい唇のすき間から突き出している。呼吸のためか、それとも会話を試みようとしているためか、ぶひゅう、ぶびゅうと、唇と舌の合間から水が吹き散ってかかる。顔が濡れる。蒸発に伴って悪臭も漂う。


 逃げているわけじゃない。聖鷲さんの言葉をうのみにすれば、この水死体はそうじゃない。だから私も逃げたりはしない。何か伝えたいことがあってのこの暴挙なのだから。

 膨らんだ胸、腹。自己融解によって、今にも破裂しそうな爆弾を抱えたお腹を支えるその手つき。


 きっと、そうよ。


「ねえ、聞いて。それで、返事なんかしなくていいわ。しゃべれないんでしょう」


 目が飛び出したことですき間が生じた眼窩から、水がとぽとぽとこぼれる。水死体が動いたせい。たぶん、返事をするために首を振ってくれたから。


「私、あなたの検死に来たの。どうして死んだのか、理由を探るためにね。でも、病院でふつうの患者さんも診るの」


 胸元のクリップを取って、ネームプレートをつまむ。水死体に近づいて、飛び出した眼球にネームプレートを見せてあげた。


「空峰産婦人科医院の婦人科医なの、私。婦人科の先生よ。だから安心して、任せて」


 白衣のポケットからゴム手袋を取りだして身につける。

 その間に、水死体は倒れた。木道の脇、柔らかな土の上に仰向けに倒れていく。さえぎる木々が何もない空間だったおかげで、彼女の体がばらばらにちぎれることはない。落下の衝撃は、すべて腐葉土が優しく受け止めてくれた。こんなに自然が優しいと、やっぱり山の中で自殺を考える人が多いのも無理はないわと考えてしまう。

 首からネームプレートを外して、白衣からはスマートフォンを取り出す。二つをまとめて木道に向かって投げた。それから白衣を脱いで丸めながら、彼女に声をかける。


「何も怖くないわよ。だってあなたもう、死んでいるんだもの。痛くもないでしょう。内側から追い出そうとする力はすごく強かったはずなのに、目玉だって舌だって飛び出したのに、よくがんばったわ」


 彼女は、それだけはずっと守り続けていた。

 なら、果たさせてあげたい。

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