第9話

レルマの視点:


 部屋の中が静まり返る。

「あ、ごめんなさい、邪魔するつもりじゃ……」

「チーズケーキ食わねえか!」

「はぇ?」

「余ってんだよ、チーズケーキ!」

 そう言うとその人……このラボでは珍しく、白ではなく緑のモッズコートを着た男の人は、じっとこちらを見ていた。っていうより、え? チーズケーキ?

「ちょっと、なんすかその絡み方! すいませんねェ、いきなり……」

 その隣に座っていた、筋肉質で背の高い人が言う。

「助けると思って一緒に食べてくれないか……俺たち『おじさん』にホールケーキは重すぎた……」

 その真向かいに座る、痩せたハスキーな声の人が言う。

 なんだろう、この空気は。緊張感がなさすぎる。

「た、食べますぅ……」

 僕はさっきとのギャップで、このゆるい雰囲気に安心しきってしまって、差し出された椅子にへなへなと座り込んでしまった。それから、受け取ったフォークでケーキをパクパクいっぱい食べてしまった。(チーズケーキは切り分けられているわけではなく、ホールのまま食べていくスタイルだった。)チーズケーキは味がしなかったけれど、おいしかった。

「あ、ミィニャさんも、よければ食べてください」

「お前ミィニャにも敬語使うのかよ」

 フォークを握れないミィニャちゃんには、小皿に切り分けられたケーキが渡された。フォークの穴が空いていない、綺麗なところを取ったから、小さな塊になってしまっていたけれど。

 僕がケーキの半分の半分くらいを食べきったところでようやく、痩せたハスキーボイスの人が口を開いた。

「何やら切羽詰まったような感じだったが……何かあったのか……?」

「あ、もちろん、言いたくなかったら言わなくていいですからね」

 背が高い筋肉の人も気を遣ってくれた。あ、やっぱり気になりはするのか。けれど、僕はここの空気に本当に安心しきってしまっていたから、今までのことを色々と喋ってしまった。ジルケとイェレイくんとヴァーデルラルドの周りで怪しいことがあること、ジルケについて聞き込みをしていたこと、その途中で少し怖い思いをしたこと。おしりちゃんのことと、ヴァーデルラルドが偽物になっていることは伏せたけれど。(だって、さすがに信じてもらえるとは思えなかったから!)

 三人の人たちは、僕の話を面白そうに聞いてくれた。特に緑のモッズコートの人は、僕が話している間中ずっと身を乗り出していた。

「へぇ〜そんな面白ぇことになってたのかよ!」

「ジルケとは誰だ……有名人なのか……?」

「あっそうか、お前はここ来たばっかだから知らねえのか」

「ちょっと前までいたんですよ、そういう研究員が。倫理観なかったですけどすっごい優秀で。イェレイとジルケ合わせて、奇跡の代とか言われてたんですよ。二人とも飛び抜けて優秀だったんで」

「ジルケの奴嫌われまくってたけど、俺ちょっといいなーって思ってたんだぜ」

「性格に難ありだけど仕事ができる〜みたいなの好きですもんね」

「つーかあいつ死んでたのかよ」

「俺も今知りました」

「なるほどな……理解した……」

 僕はその後もジルケについて色々と質問したけれど、僕が知りたいことについては、どれも心当たりがないらしかった。それは今まで聞き込みをした人たちと同じだったけれど、一つ印象的だったこととして、この人たちは、ヴァーデルラルドのことをそんなに尊敬していなさそうだった。

 ふと、この人たちになら、話してもいいかもしれないと思った。

「実は、ミィニャちゃんがヴァーデルラルドに狙われてるんです」

「え?」

「実験しようとしてるっていう話を聞いちゃって……」

 僕は今朝の話をそのまま伝えた。信じてもらえるかは、自信がなかった。けれど意外なことに、僕が話し終えると、緑のモッズコートの人は「やっべえ〜!」と、心底楽しそうに手を叩いた。

「あいつならいつかやると思ってたぜ! あいつやっぱマッドサイエンティストじゃん!」

「なんでちょっと嬉しそうなんすか......」

 筋肉の人が呆れたような反応をしながら、腕を組む。

「でも妙っすね。あの人のこと昔から知ってますけど、人道は守る奴でしたよ」

「え、お前どの目線から喋ってんの?」

「いや俺、ヴァーデルラルドが来る前から地球再生プロジェクトやってたんで……」

「あっそう」

「とにかく、他人のペットを勝手に使って命の危険に晒そうとするなんて、前は考えられませんでしたよ」

「ジルケならやりそうだけどな!」

「まあそうかもですけど、あいつはもう死んでますし……やっぱり清掃員さんの言う通り、何かおかしなことがあったのかも……」

 その時、誰かがこの部屋のドアをノックした。ノックの主は僕たちの返事を待たず、「レルマさんはいますか」と顔を出した。「僕ですけど……」と立ち上がると、「お話があります」と外に連れ出された。外には何人かの職員さんがいて、そこで僕は言われた。

「本日をもってレルマさん、あなたにはこのラボを辞めていただくことになりました」



 待って待って! 急に何!? 意味わかんない!

 わけのわからないまま、僕は羽交い締めにされて、あっという間に社員証を取り上げられてしまい、無理やり引きずられて、外につまみ出されてしまった。

 ドアが閉まる。慌てて戻ろうとしたけれど、この建物は社員証か許可証がないと中に入れないから、僕はドアの中に入ることすらできなかった。

「誰か! 誰か開けてください!」

 ドアを力いっぱい叩いてみる。けれど、反応はなかった。

「どうしよう……」

 サッと血の気が引いていく。追い出されてしまったこともそうだけど、何より、ミィニャちゃんを中に置いてきてしまった!

 僕はミィニャちゃんを守らなくちゃいけないのに。イェレイくんと約束をしたのに。ミィニャちゃんがヴァーデルラルドに殺されるところを想像して、僕は泣きたい気分になった。

「そ、そうだ! 他に裏口がないか調べてみよう!」

 僕は気を取り直すためにそう口に出して、歩き出した。けれど、僕が見つけたドアには全部鍵がかかっていた。

「連絡! イェレイくんに連絡しないと!」

 そう思って端末を取り出そうとした時、ポケットの中にそれがないことに気がついた。え、なんで? 自分の服の全部のポケットに手を突っ込んでみても、端末はどこにもなかった。

「あ、もしかしてあの時……」

 社員証を取り上げられた時に、端末も一緒に取り上げられてしまったんじゃないか。

「嘘でしょ……」

 僕は地面にしゃがみ込んでしまった。だって、こんなのってないじゃないか。



 どれくらいそうしていただろう。

 僕はエントランスドアの前にしゃがみ込んでいた。エントランス前にいれば、誰か通りかかるんじゃないかっていうことを期待して。

 けれど。一向に、誰も、通りかかる気配はなかった。それもそうかもしれない。就業終了まではまだ時間があるはずだし、そうでなくても、このラボには社員のための寮もあるから、外に出なくても生活が完結できてしまうのだ。かくいう僕も、ラボの中の社員寮に住む人の一人だった。

「ミィニャちゃん……おしりちゃん……」

 僕は、これまで喋れる友達が隣にいたことを懐かしく思った。あれは本当にありがたいことだったんだ。寂しくて思わず目をこする。

 ラボの中はあれだけ植物で溢れていたのに、一歩外に出た途端、植物は影も形もなくなっていた。もしかしたら、外じゃおしりちゃんの植物は長く生きられないのかもしれない。とにかく、そこにあるのは、無機質な真っ白い壁だけだった。

「頭痛くなってきた……」

 きっとこの空気のせいだ。僕は壁にもたれかかった。この地域の空気は、もう何年も前から赤黒く濁り切って、とてもガスマスク無しじゃ生きていけない環境になっていた。

 このままじゃ本当に死んでしまう。早くどこか建物の中に入らないと。けれど、ラボの中には入れないし、街に出ようにも、このラボから街までは少し距離があった。このラボは街から孤立しているのだ。

 ふと、ラボの中で出会った「治験」の人を思い出す。そういえばあの人はホームレスなのだと言っていた。そっか、一応、家がなくても生きていくことはできるんだ。と思ったけれど、昔街で見かけたホームレスの人たちも、ガスマスクだけはしていたのを思い出す。じゃあ結局ダメなんじゃないか。

 ミィニャちゃんを置いてきちゃったのに、ここを離れてもいいのか? それでも、なんとか街に出て、生きるための諸々を揃えたほうがいいのか? でも財布がないから、街に出たとして何も買えはしないじゃないか。物乞いでもすればどうにかなるのかな。

 考えてみるけれど、濁った空気のせいで、どうにも考えがまとまらない。僕は地面に横になった。本当にまずいかもしれない。僕、このまま死んじゃうのかな。

 そう思った時だった。

 エントランスのドアが開いて、誰かが外に出てきた。僕はバッと顔をあげた。そこには、白くて柔らかいブラウスを着た研究員、フーレくんが静かに見下ろしていた。

「こんなところにいたのか。探したんだぞ」

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