第九話 袖の露
「久遠は、旅に賛成なの?」
「そうですねえ。東の地に帰ることさえできれば、私はいいですよ。」
その細い顎に手を当てて、久遠は、青い瞳をアメリアの方へ向けた。
使用人から案内され応接室で待機するように言われてから数分。体が沈み込むようなソファに小さく座りながら、アメリアと久遠は「頼み事」について話していた。
「……そうなの?」
眩しいほど、遠く彼方に光る一等星のような目の輝きに、徐に目線をずらす。
自分とは程遠いほど、暖かな陽射しのような光。
「魔塔の主に会うことができれば、願いを叶えてくれるのでしょう?私としてはこの旅を受け入れていいと思うのです。フラン様は、どうお思いで?」
炎のようにゆらめいた太陽が、窓の外で山々の間に沈み込んでいる。大理石で整えられた、やけに華々しいこの応接室も、暖かな色で染め上げられていた。
「……フラン様?」
この身体は、いつまで持つのかわからない。久遠にまで、危害が及ぶ可能性だってゼロではないのだ。
国王からの「頼み事」を断れば、不敬罪として罰せられるだろうが、そのほうがむしろ好都合だった。周りに迷惑をかけずに済むのだから。
「……私は、旅に出ることは、できない。」
彼は知らない。ひとりぼっちで生きてきた、その訳を。
しかし、アメリア自身いう必要はないと悟っていた。異国の人にしろ、何にしろ、所詮人間なのには変わらない。
人間というものは、常に自分本位だ。他人のことを構っているほど優しくなんてない。
「今回のタンザナイトドラゴンは、貴方が倒した。人の手が加わっていると見抜いたのも、クオン、貴方なの。私は、闘うことができない。旅に行くと、貴方の邪魔になってしまう。だから、一人で行って。」
なぜだか、声が波打つように震えた。うまく、目線を合わせられなかった。
「……貴方なら、そうおっしゃると思っておりました。」
ふと、垂れていた首を持ち上げる。三角の形をした、黒い帽子をとり、その艶やかな髪を肩に垂れ流した久遠は、小さな子供にするかのように、小さく微笑んでいた。
「短いあいだでしたが、お世話になりました。どうか、達者で。」
上等な布であしらったソファから立ち上がり、深々と礼をする。意外とあっさりとした別れを、ただただ呆然とアメリアは眺めていた。
真横を白い袖がふわりと舞って、彼の持つ和やかな香りを一面に漂わせながら、背後の豪華な扉へと歩んでいく。
そして、ガチャリと、扉の閉まる音がした。
アメリア自身、いたって冷静だった。冷静だからこそ、振り返りもせず、ただ空になった正面の長椅子を見つめている。
正しい道を、選べたはずだ。誰も傷つけず、自分が一人になれば、救われる。
そう、思っているはずなのだが。
『フラン様が、身も心も誰より美しいのは知っております。』と。
魔法を使わない魔法使いを見ても変わらないあの柔らかな笑顔が、ふと、脳裏に宿った。
「……違う。違う、違う。これで、よかったんだよ」
ぼんやりとしていた頭に加えて、視界もじんわりと霧がかかっては、頬に冷たく露が滴った。
微かな空洞音以外何も聞こえない。
『フラン様は、魔法使いです。他の何でもありません。』
あの和やかな声が、脳裏に焼きついて離れない。
正しかったんだと。よかったんだと。もう一度ひとりぼっちに戻るだけだと。そう、何度も言い聞かせても、喉は塞がり心臓が締め付けられる。
滲んで明るんで、また滲んで。
とめどない露が流れ落ちて行った手先に、ふと、暖かなものが当たった。
「……これ、は?」
小さな、うさぎの形をした紙切れが、アメリアの手の甲に擦り寄ってきていた。
不意に香るのは、和やかな香り。
刹那、背後から、温もりをいっぱいに宿した腕が、アメリアの肩をゆっくりと包んでいた。
「……申し訳ありません。少し、驚かせようと思ったのです。」
耳元で聞こえる、滑らかな声。しかし、いつもと違って、深く重みを帯びていた。
「どうか、共に旅に出てはくれないでしょうか?自分勝手な申し出は承知の上でございます。ですが、どうしても、私は貴方様と共に旅路に行きたいのです。」
「……どうして、そこまで私に構うの?」
やっとのことで出た言葉がこれだ。自分で言っておいて呆れてしまった。
しかし、それを嘲笑う様子は一切にしてなく、ただひたすら、腕の温もりはそのままであった。
「貴方様のことを、ひときは知りたいと思ったのです。ご自分のことを多く語らない貴方様故に、ますますその胸の奥に秘めた御心を、知っていきたいと存じました。」
手のひらに乗った雪うさぎは、チラチラと踊っては揺れて、手のひらに雪が降るようだ。
アメリアの頭の中も、雪が積ったかのように白かった。
このように言ってきた者は、久遠が初めてだ。あの人でさえ、こんなこと、言ってくれたことなんてなかったのに。
「……もし、異国の者といるのが不都合ならば、諦めますが。」
「違うのっ。そんな理由で、いきたくないわけじゃないっ」
思わず、強く言葉が出た。
お互いが、お互いの面を見れないでいる。重い空気が滞る。しかし、さっきまであんなに強情だった口先が、するりと動き出した。
「私、貴方にきっと迷惑をかける。旅をすれば、貴方も、村の人と同じ考えになるわ。」
手は、微かに震えていた。自分でもわかるくらいに、細やかに刻んでは震えている。
そんな手に、白く柔らかな布が、さらりと当たった。先ほどよりも、回された腕の温もりが皮膚にじんわりと伝わる。
「そうなれば、どうぞこの私を捨ててくださいませ。迷惑とはかけあうもの。」
ふわりと、雪が舞うように袖が靡いた。包んでいた腕が解ける。
「それが人という者の、本来の在り方なのですから。」
まるで、暖炉の炎に包まれていたかのような心持ちだった。一言一言、彼の言葉が身体に浸透して、冷ややかであった心に灯る。
「貴方様の手となり足となりましょう。貴方様が魔法を使えない時は、この陰陽師の力を奮って道を切り開きましょう。ですから、どうかこの手を取っていただけますか?」
ゆっくりと、目の前に差し出された手を見つめる。角ばったその白い手が、ぼんやりと輪郭をなくしていく。
なぜ迷惑をかけることになるのか。そんな疑問を抱いているにちがいないのに、この男は、それを聞かずに肯定してくれている。
心臓がアメリアに呼びかけていた。旅に行くのだと、体の中で強く硬く叩いている。
「……ありがとう、久遠。」
その手を取った。広く開かれた窓。そこから差した日差しに照らされて、重なり合った手が熱を持つ。
手の中に包まれていた雪兎は、楽しそうに飛び跳ねながら、光の結晶となり消えていった。
ひとりぼっちの魔法使い、陰陽師と出会う。 安曇桃花 @azumi_touka
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