第5話 謎の女性

 龍心は後退り、踵を返し走り出した。もう何も考えられず何も見たくなく、今すぐ逃げ出したかった。涙が溢れた。この騒動で彼が会場から逃亡したことなど誰一人気づいていない様子だった。


 全て父のせいだ。父が隣町の神主と喧嘩したりなんかしなければ、こんな最悪な事態は招かなかった。伝統を軽んじ慣習を破ったために龍神の怒りに触れたのだ。


 自分は母のことも救えなかった。父が母を殴り、祖母が母をいびっている時ですら。祖母は父の心を巧みにコントロールし、悪いのは全て母、一番頑張っているのは自分、自分がいないと父は生きていけず何も出来ないと刷り込んだ。単純で軽薄な父は実母を崇め余計に攻撃の矛先を母に向けた。


 祖母が倒れ弱っていく中、母は病床に料理を運び身体を拭き献身的に看病をしていた。母は優しくて強いけれど、自分は逃げることしかできない弱虫だ。龍心は自己嫌悪で一杯になった。


 走り疲れさびれた料亭の屋根の下に蹲り泣いていた龍心は、不思議な気配を感じて顔を上げた。いつの間にか知らない女性——白い着物姿で20代くらいの、透き通るように色が白く切長の目をした女性が立っていた。


「こうなると思っていたわ」


 彼女は呟いた。驚くことにその身体は雨に全く濡れておらず、はっとするほど周りの景色から浮き出て見えた。


「泣いていてどうするの? あなたも兄様に似て弱虫ね」


 女性は龍心を見下ろし凛とした声で言った。


「あなたは誰?」と龍心が訊くと、女性は微笑んで、「そのうちわかるわ」と答えた。


「それより早く祭りに戻って」


「嫌だ、もう祭りは失敗だ」


「泣き言を言わないの」


 女性はぴしゃりと言った。


「あなたは神社の跡取りでしょう、しっかりしなくてどうするの? 兄様は私と会うことと同じ位祭りを見るのを楽しみにしている。とりわけ神主の舞を見るのをね」


 龍心ははっとした。父が倒れたために舞が途中になってしまっていたことを。それと連動してあの考えが再び浮かんだ。


「父さんが死んだのは、もしかして僕が死んでほしいと願ったから?」


「違うわ」


 女性はきっぱり答えた。


「彼は余りに罪を重ねすぎて、天罰が下ったのよ」


 龍心は胸を撫で下ろした。嘘でも本当でも、そう考えると救われる気がした。


 その時騒々しい囃子と騒ぎ声がし、白い神輿が大急ぎで担がれて行くのが見えた。その後ろに続く地車と山車、白い法被姿の人々の姿も。大平町の一団と分かった。


「さて、そろそろ行かないと。私の町では皆念のため、祭りの準備をしてたの。君も早く来なさい、神主の代わりは君にしかできない。町を救うために強くなりなさい」


 女性は言い残し駆け出した。やがてその姿は神輿の中に吸い込まれ見えなくなった。

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