第3話 大陸神殿
この世界に残っている神話は断片的だ。
否、それは断片になってしまったというべきだろう。
この世界の地表において人間が住んでいる場所は、全体の二割ほどでしかない。あとは原初のままの大地が広がるのみで、踏み入ることもできない樹海や氷土、乾ききった荒野などが占めている。
そのような場所を避けて人間の国は点在しており、国と国は長い年月をかけて拓かれ整備された街道によって結ばれている。もちろん、人が通らない街道は忘れ去られて廃れていくので、各国は孤立しないためにも自国を盛り立てていかねばならない。
この世界において、国とはみな独立都市だ。その関係は友好的なものもあればそうでないものもあるが、国を挙げて争い合うことはない。それをするにはあまりにも国と国との距離は開いており、人間の数は限られている。人の出生率はさほど高くないのだ。だからどの国も自国の維持を第一に考えた上で、旅人たちを歓迎している。彼らはやって来て情報と金をもたらし、歓待すればよい評判を持ち帰ってくれるからだ。
ただ世界には、そういった人間の往来を必要としていない場所もある。
大陸中央部にある浮島。五本の巨大な鎖によって地上に繋がれた大陸神殿。
世界随一の蔵書を持つそこは、大陸の知が集まる場所だ。何にも侵されない不変の場所。
この島は誰しもに門戸を開くわけではない。許可がなければ足を踏み入れることさえ許されない。島を繋ぎ止める鎖は人が登れるものではなく、唯一の往来手段である浮舟は徹底した管理下にある。
「――そちらの条件は満たした。これが盗まれた本だ」
「確かに。確認いたしました。これが通行証です」
丁寧に箱にしまわれた稀書を神官は確認する。引き換えに渡されたのは、浮舟が使えるようになる通行証だ。ディノ・ハルトは感慨深く、金の装飾が施されたそれを見つめる。
彼の国であった権衡都市アランディーナが滅びてから、早くも五年。
ここに至るまでの道程は平坦ではなかった。
あの晩、ディノは主君の血を浴びながら生き残った。マイアスティを殺した蟲は、彼女の上半身だけをつまみあげると夜の中に消えたのだ。
彼はその後を追おうとして追えなかった。呆然自失していたというのもあるだろう。けれどそうしていた時間は長くはなかったはずだ。
ただ彼が我に返ってあの蟲を追った時、蟲はかき消すようにその場から消えてしまった。マイアスティを殺した蟲だけでなく、街を襲っていた全ての蟲がだ。
まるであれが一時の悪い夢であったように全ては消え失せた。生き残った者は少なく、彼らの証言も妄言として扱われた。
けれど確かに、国は滅んだのだ。
権衡都市アランディーナの被害は甚大だった。街自体の被害もそうだが、人が死に過ぎた。生き残った者たちは、ちりぢりに他の都市に移住することになった。女王も王女も亡くなり、王権は失われた。それら手配の全ては生き残った高官たちが奔走してくれたことで、ディノは何もできなかった。
彼がやったのは、生き残った幼い兄妹の引き取り手を探したことくらいだ。
それが無事終わった後、彼は蟲を探した。
蟲たちが消えた後、マイアスティの上半身はどこからも見つからなかった。持ち去られたのだ。それを見過ごすことはできない。そして祖国が何故滅んだのか、あの悲劇を正体不明のまま放置することもできなかった。
だから彼は蟲を追った。消えてしまったものを探した。
蟲はあの夜以来、出没した話を聞かない。国一つを壊して充分腹がくちたのか姿を見せない。
ならば過去に遡ってはどうであろう。ディノはあちこちの国を巡り、冒険者たちの話を聞き、有識者の書いた資料を集めた。そうしてようやく、それらしい答えを得た。
――神獣。
古き、ずっと古き時代に、神々がこの世界に残したもの。
本来人間が出会うことのないはずのそれが、あの蟲ではなかったかと。
神獣の目撃譚は決して多くはない。
ある言い伝えでは、空を飛ぶ巨大な魚であったと言われ、
ある手記では、山と見まがうほどの大きさの四つ足の獣だったと言われ、
ある冒険者は、光を反射しない無数の黒い粒だったと語った。
どれも真偽の定かではない話だ。その中にでさえ、ディノの見た蟲の話はなかった。ただ共通していたのは「突然現れて、突然消えた」という話だけだ。
それ以上の情報はない。そもそも神獣など伝説の中の存在で、確証など求めて得られるはずもないのだ。いい加減手詰まりかと思いかけたところで、ディノは大陸神殿の話を聞いた。
大陸中央にあり、他者の来訪を拒んでいる島。その深奥には図書館があり、この世界に人間が住み始めて以来の知識が全て残されているという。
ディノが大陸神殿を知ったのは少年の頃だ。一度だけ、マイアスティの付き添いとして大陸会議の会場である大陸神殿を訪れた。祖国滅亡後も手がかりを探して一度、大陸神殿を訪れたがその時には門前払いをされた。彼らにとっては一国の滅亡など顧みる価値もないのかと、当時は憤りさえ覚えた。
だが五年が経過した今になって考えると、その対応に納得もする。大陸神殿は不変であることを何より優先しているのだ。その島が空にあるように、地上の鳴動には関わらない。大陸会議がそこで開かれていたのも、「どこの国でもない中立の場」として間借りしていただけのことだ。大陸神殿は地上に何をすることもない。その代わり知識が蓄えられていく。
ディノは大陸神殿のその在り方を知って、図書館を訪れるための資格を得ようと再訪した。そんな彼に大陸神殿が出してきた条件が、「こちらからの依頼を五回叶えること」だ。貴重な物品の捜索や探し人など、依頼内容は様々だった。一つを叶えて戻ったらすぐ次を呈されたこともあれば、「今は何もないので後日また聞きに来るように」と二年待たされたこともあった。
そして最後の一つが「六十年前に盗まれた本の回収」だ。これには一年かかった。
気が長くなることを強いられたような五年間だった。
実際、長くなった気もする。腹を立てたり落胆したりすることが減った。そのような感情は、最初の一年で擦りきれてしまったのかもしれない。彼は淡々と出される依頼を叶えて、その最後の一つが今日終わった。自分に感情がなくなってしまったように思えても、実際に通行証を手にすると感慨もある。
地上に置かれた大陸神殿の分室は、今日も訪問客が絶えないらしい。真白い石造りの面会室で、通行証を手にしたまま動かないディノに、担当の若い神官は「次の方が待っていますので」とやんわり退出を促した。ディノは我に返ると一礼する。
「失礼した。ありがとう」
「あなたに神のご遺志があらんことを。お疲れ様でした」
この数年間、幾度となく聞いた言葉。けれど最後の一言は今日だけ付け足されたものだ。まるで旅の終わりを示しているようでディノは苦笑する。まだ何一つ終わっていない、始まってさえいないというのに。
それとも全てはあの夜、終わってしまったままなのだろうか。
二十七歳になったディノは面会室を出る。大陸神殿の分室は、大陸神殿を繋ぎ止める五本の鎖の下にそれぞれ一つずつ置かれている。ディノが通っていたのは、そのうちの最東にある一つだ。小さな真四角の建物を出ると、そこには青々とした草原がなだらかな丘になって広がっている。草原には、黒い石畳を敷かれた街道が東の方へ延びていた。分室の客らしき騎乗した人間が、遠くから近づいてくるのが見える。
今まではディノもこの道を引き返して最寄りの街へと戻っていた。
だが今日は違う。このまま浮舟に乗るつもりだ。この五年間、彼は小さな荷一つ以外の財産は何もなく各地を放浪していた。いつでも、どこにでも移動できる。
彼は白い建物の壁に沿って、分室の裏へと回った。そこには巨大な鎖を地面に繋ぐ鉄輪があり、隣には大陸神殿へと渡るための浮舟が待っていた。
鉄輪は直径が大人の男の身長ほどもあり、半分が地面に埋まっている。地中ではその数十倍の鉄塊と連結しているのだという。一方の浮舟は、半円の形をして屋根に布を張った白い石船だ。大きさは船頭を除いて五人が乗れるくらいで、船首には青い精霊石が嵌っている。鎖の中にも同じ精霊石が埋めこまれており、両者が呼応して空に浮かぶ大陸神殿まで人を運んでくれるのだ。
船頭は、船に寄りかかって、長い草の茎をしゃぶっていた。この地方でよく採れるオデという名の草は、中が管になっていて甘い蜜が詰まっている。旅人などがむしって吸うこともあれば、この土地に生まれた者は子供の頃の習慣として口淋しさに吸っている者も多い。船頭の男はどちらかと言えば後者だろう。ディノを見て草を捨てると、「やあ」と声をかけてきた。
「神官たちが帰るにはまだ早い。先に送っていってやるよ。通行証はあるんだろ?」
「ここに」
ディノがもらったばかりの通行証を見せると、船頭はそれをちらっと確認しただけで、船に乗るよう指示した。船に隣接する石段の先は船縁が一部扉のように開かれている。乗降のために開閉できる仕組みになっているのだろう。船に上がると、中は縁に沿ってぐるりと座席が置かれている。神官たちの帰りと一緒になっていたら、彼らと向かい合って上まで行かなければならなかったかもしれない。それは少々気づまりだ。
後から上がって来た船頭は縁の扉を閉める。
「好きなところに座ってくれよ。そう時間はかからない。ああ、通行証は上で出すから、くれぐれも落とすなよ。一度動き出したら上に行くまで戻れないからな」
「分かった。よろしく頼む」
ディノが荷物を置いて席に座る間、船頭は船首側に屈みこんで何やら作業している。しばらくすると船は一度、がこんと大きく揺れ、その後はゆっくりと宙に浮き上がった。ゆっくりと旋回し、船首が鎖の方を向く。そこで向きが固定されると、今度は高度が上がり始める。
鎖に沿って斜め上方に、大きな浮島目指して。
ディノは船縁に腕をかけ、遠ざかる地上を眺める。小さな真四角の分室はみるみるうちに遠ざかり、ただの四角い駒のように見えた。草原が遥か遠くまで見渡せる。街道をぽつぽつと行く人々が虫のように思える。あの夜のことも、これくらい高みから俯瞰したなら、普通の虫が獲物を追いかけているだけの光景に見えただろうか。
埒もない考えに耽っている間に高度は大分上がっている。船頭が鎖の上方を見たまま言った。
「気をつけなよ。たまに気分が悪くなるやつがいる」
「今のところは平気だ」
「へえ、そりゃいい。けど、体が頑丈かどうかは関係ないらしい。あんたも相当鍛えてそうだけど、駄目なやつは何日も寝こんじまう。せっかく滞在が許可されても日数をそこで消費しちゃ損だからな」
「日数……」
その話はディノも知っている。大陸神殿に渡る方法について調べた時に、「大陸神殿に行った」という人間たちから聞いたのだ。大陸神殿は入る際に滞在日数を告知される。それはどういう基準かは分からないが絶対的なもので、破ることは許されない。大抵の人間は長くて三日で、ようやく立ち入りを許された学者が「そんな期間では何もできない」と嘆いていた。
ディノもおそらくは同じくらいだろう。彼は、自分ではその時間で充分な成果を出せないだろうことは分かっていた。
だから目的は資料ではない。人だ。
浮舟に影が差す。大陸神殿が近づいてきているのだ。ディノは世界で唯一の浮島を仰ぎ見る。
それからまもなく、舟は大陸神殿に到着した。
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