第2話 あなたの言葉は今もなお



 夜空を悲鳴が焼いていた。

 昼よりもよほど明るく、赤く。

 燃え盛る火は、今まさに街を食い荒らしている巨獣を焼くために放たれたものだ。

 だがその火は現状意味をなしていない。ただ家々を焼き、人々の逃げ道を塞いでいるだけだ。


「たすけて……たすけ、」


 惑いながらの悲鳴は、恐慌の中に消える。そんなことがそこかしこで起こっている。

 皆がそうだ。皆が助けてもらいたいのだ。

 けれどここには助けの手はない。街を焼く火の中を何体もの巨獣が悠然と闊歩していく。


 それは、蟲に似ていた。


 両前脚が鎌になっている緑色の蟲。草むらにあって他の虫を襲って食らう種によく似ている。

 ただ今、街を行くそれらの肌は鋼鉄のように固く黒々としており、何より大きさは家々を遥かに超えていた。そんな蟲が、火の海の中を当たり前のように行きながら、人々を見つけて摘まみ上げている。摘まみ上げて、食らう。肉の押し潰される音は、悲鳴と炎の音でよく聞こえない。けれどそのことは、人々の恐怖をなんら和らげることはなかった。

 ここが蟲たちの捕食場に成り果ててしまったことは、あちこちに転がる兵士たちの死体からとうに分かっている。蟲たちを留めようとした彼らは、真っ先に格好の獲物として扱われた。鎧を着たその体は巨大な鎌にあっさりとちぎり取られ、食べ残しは打ち捨てられた。両断された足や零れた腕に構わずとも、蟲たちにはもっと多くの獲物があったからだ。

 足の遅い老いた者が、泣きじゃくる幼子を抱いた母親が、混乱して袋小路で叫んでいた若者が、次々捕食されていく。


「あ、ああ」


 死は、劇的でもなければ悪辣でもない。ただ自然の一部だ。

 そう諦めざるを得ない生き物としての力の差が、ここには広がっている。

 まだ命ある人々は、街の中央にある城に蟲たちが群がり始めるのを見て実感する。

 この国は、今夜ここで滅ぶのだ。





 炎と死がちろちろと舌を伸ばす中、上から覗きこめないような細い裏路地を、長身の男は少女を肩に抱え上げて走っていく。黒衣の青年は鎧を纏っていないせいか走る速度は速く、物の転がる乱雑な小路を器用に駆け抜けていく。彼の抱える少女は淡い金髪をなびかせており、絹で作られたドレスの裾が舞い上がって空中に尾を引いていた。

 まだ十五歳の少女は、鳶色の目を見開いて遠ざかる城を見つめる。


「ディノ、お母さまは……」

「ご心配なく。別の者たちとお逃げになったはずです」


 それは嘘だ。女王は今も燃える城に踏み留まっているだろう。逃がされたのは王女である彼女、マイアスティだけだ。

 主君直々に彼女を預けられた男、ディノは少女に見られぬ角度で歯噛みする。蟲の迎撃の指揮にあたっていた彼が呼び戻されたのは敗北宣言とほぼ同義だ。実際、ディノの指揮で殺せた蟲は五、六匹だけで、あとは前進を止めるのがやっとだった。この国でもっとも若く、指折りの実力があると言われたディノでさえそうだ。他の部隊がどうなったか彼は城に戻った際に少しだけ聞いたが、いずれも目を覆いたくなるような凄絶な結果だったという。

 でも、だからこそ彼はマイアスティを逃がさなければ。


「大丈夫です。殿下さえいらっしゃれば、街が壊れてもまた人は集まれます」

「けれどディノ、人がたくさん死んで……」

「それでも。国は死なぬのです」


 酷なことを言っているとは思う。ただその代わり、自分は何としても彼女を守るだろう。今こうして、街を捨てて彼女一人を逃がそうとしているように。

 ディノは転がる木箱を飛び越えて走る。肩の上で少女が小さな悲鳴を上げた。

 王女であるマイアスティが彼に託されたのは、彼の母がこの少女と乳母だからだ。七歳年下のマイアスティは彼の弟と同い年で、ディノは彼女を生まれた時から知っている。

 城の奥で大切に育てられたマイアスティは、気丈で、人の痛みに敏感な娘に育った。そんな彼女が燃える国から脱出せねばならない心痛はどれほどのものか。ディノはできる限り遺体のないであろう道を選んで路地を走っていく。どこからか男のものとも女のものともつかぬ、ただ絶叫が聞こえてくる。


「殿下、通りへ出ます。目を閉じていてください」


 今まで路地を走っていたが、街の外に出るには大通りを通らなければ城壁を越えられない。

 マイアスティからの返事はなかったが、沈黙を了承と看做して彼は通りへ出た。

 普段は露店が並び人で賑わうそこは、今は真夜中のように静まり返っていた。西門から繋がるそこは、既に蹂躙された後だった。道端にぼたぼたと転がる人の一部は、どれも歪な血溜まりを伴っていた。遠くに上がる火を受けて、血は赤黒く艶めく。漂う生臭さは戦場と同じだ。

 だが酸鼻を極める景色の中に出ても、肩の上からの反応はない。マイアスティは言った通り目を閉じてくれているのだろう。ディノはそのことに安心して終わりきった通りを駆け出した。

 崩れかけた建物の白茶けた壁に、大きな蟲の影が映っている。揺れるそれが自分たちの方を振り向かぬよう、ディノは祈る。

 門はすぐそこだ。普段は夜閉じられている大きな鉄製の門は、今は両側の門扉ともひしゃげて打ち捨てられていた。辺りに生きている人間はいない。彼らを屠る蟲も。巨大な鉄扉と共に転がる兵士たちの遺体に、ディノは意識を置かない。彼らがどれほど混乱したまま突然の死を迎えたかは分かっている。

 その一つ一つに今、心を砕いてはいけないのだ。


「殿下、あと少しです」


 肩の上に励ましの声を送る。今、街を襲っている蟲の正体は分からないが、これらは突然街に現れたのだ。他の街が襲われたという話は入って来ていない。そしてこの街を取り囲む城壁は、もっとも大きな蟲よりも高い。街を食い荒らす蟲たちが外へ出ていくにも時間の猶予はあるだろう。その間に上手く街道を行く者たちと一緒になれれば逃げ伸びられる可能性はある。

 王女を抱えた彼は門の手前、細い道と交差する場所へ差しかかる。

 その時、近くの壁に映っていた影が動いた。

 細い道の向こうから子供の泣き叫ぶ声が聞こえる。

 ディノは、そちらを見た。見てしまった。

 上半身だけが残っている母親と、その前で震えている小さな兄妹。

 彼らの姿を、黒々とした鎌を持つ蟲が覗きこんでいる。他の蟲よりもやや小ぶりな個体で、だがその体は建ち並ぶ家々と同じほどだ。頭の両端についた大きな目が子供たちを興味を思わせる素振りで捉えている。その情景は、死と同じだ。

 足を止めてはならない。

 彼の命より子供たちの命が重くとも、今はマイアスティがいる。彼女もまた守られなければならない存在なのだ。

 だがそれでもディノはほんの一瞬躊躇った。そしてそれは、結果とは関係なかった。

 動いたのはマイアスティだ。


「だめよ」


 彼女は目を閉じていなかった。

 自分の国が燃える景色を、ディノの肩の上でずっと見ていたのだ。

 彼女のその手が、幼い兄妹に向かって伸ばされる。


「だめ」


 悲痛でもなく、震えてもおらず、ただ当然のものとしてもう一度発された言葉。

 ゆったりとした白い袖が、壊れゆく街の中で輝いて動く。

 それを蟲は振り返った。目の前で抱き合って固まっている兄妹ではなくマイアスティの方を。

 定められた獲物が変わる。両手の鎌を下ろした蟲はマイアスティをじっと見据える。生死の天秤が傾いたことを、その場の全員が感じ取った。

 ディノはいくつもの感情をのみ下す。

 迷っている時間はない。ここから身を翻して逃げても、あの蟲は容易に追いついてくる。

 だからディノは、マイアスティを下ろすと剣を抜いた。


「殿下、壁沿いを伝って門の外へ。わたくしもすぐに参りますので」


 勝ち目がないわけではない。ディノはここに至るまでに指揮を執りながら、単身で二体の蟲を殺している。マイアスティを守りながらでなければ戦うことはできる。

 ほんの赤子の頃から「彼女は自分が守るのだ」と繰り返し決意してきた。実の妹のように、それ以上に大事に思ってきた。彼女をここで守れないのなら、自分が修めてきた剣は無意味だ。

 そしてそれは、彼女の精神をも守るものでなければ。

 今、幼い子供を見捨てて助かれば、マイアスティには一生傷が残るだろう。他の全てをも失う少女にそれは駄目だ。

 蟲は上体を滑らせるようにゆっくりと近づいてくる。巨体にもかかわらずほとんど足音はしない。マイアスティは彼を見て言った。


「ディノ、負けないで。ちゃんと戻ってきて」


 彼女は昔からそうだ。勝てとは言わない。「目的を果たして帰ってこい」と言う。そしてディノが彼女からの命令を違えたことは今までなかった。


「必ずや」


 ディノは剣を両手で構える。

 近づいてくる蟲の大きな目に感情はない。顔の前に畳んで上げられた両前脚は黒々とした鎌だ。受ける部分がぎざぎざと棘になっているそれが、挟めば容易く人の体を両断するとディノは知っている。その鎌が、恐ろしい速度で獲物を狩ることも。

 視界の隅にマイアスティの白い裾が翻る。門の方へと走るその姿に蟲は注意を引かれたようだ。小さな目が寄り集まって巨大な目となっているそれが、マイアスティの方を見る。

 だからディノは剣を手に地面を蹴る。


「おおおおおっ!」


 叫び声を上げて彼は突貫する。

 己を奮い立たせるために、蟲の注意が自分へ向くように。竦んだ兄妹が動き出せるように。

 彼の声は場を動かす。

 蟲が両鎌を軽く引くのが見えた。だからそれに合わせてディノは蟲の懐へ飛びこむ。

 頭のすぐ上を、彼を刈るための鎌が通り過ぎていく。二つの鎌は道端の露店につっこみ、かけられていた幌を切り裂いた。その時には既に、ディノは蟲の足下へと滑りこんでいる。

 蟲たちの皮膚は固い。皮膚それ自体が骨格となっているのだろう。彼は既にそれを知っていて、だから細く見える足ではなく腹を狙って剣を振るった。

 半ば腕の力だけで振りきった刃は、ぶよぶよとした蟲の腹を切り裂く。灰色の青臭い液体が噴き出す。だがディノはそれを浴びるような愚を犯さなかった。腹の下を抜けながら、後ろ脚の節を狙って剣を叩きこむ。

 黒い外殻は切れない。砕けることもない。ただディノの膂力によって、その巨体の均衡は大きく揺らいだ。伸びたままの両鎌が、獲物を刈るためにではなく体を支えるため地面へつく。

 けれどそれは無理のある姿勢だ。ディノは、蟲の低くなった背に勢いをつけて飛び乗った。

 体勢を立て直す間は与えない。

 そのまま彼は背中を駆け上がる。蟲の首めがけて剣を振りかぶった。


「頭を垂れろ!」


 全身の力と剣の重さを合わせて。

 厚刃をそのまま叩きつける。

 鈍い音が響く。

 蟲の首は外殻がゆえに落とせない。だが加えられた衝撃は、硬い殻の内部を破砕するに充分なものだった。蟲の巨体がぐらりと傾ぐ。その体が完全に倒れる前に、ディノは蟲の背から飛び降りた。彼は振り返りざま長剣を背後へ薙ぐ。その刃は倒れようとする蟲の左目を抉った。

 嫌な感触が返る。蟲は悲鳴を上げない。

 ただ黒い巨体は、見えない糸に引かれるようにして横倒しになった。ぶるぶると震える足をディノは緊張の面持ちで見やる。

 蟲に起き上がる様子はない。幼い兄妹はようやく立ち上がったところだ。ディノは肩で息をつくと、彼らに門の外を示す。


「街の外に逃げるんだ。生きていなくては何もできない」


 母親の遺体を置いていかねばならぬことに思うところもあろうが、埋葬するにもまず彼ら自身が生き延びなければ。

 兄の方が小さく頷く。彼は妹を促して門に向かって走り出す。ディノは背後を警戒しながらその後を追った。三人は門の外に出る。

 マイアスティはそこにいた。

 運命などは何もなかった。ただ必然があっただけだ。

 だから彼女の前には、既に蟲がいた。

 黒い、巨大な蟲。城壁と同じくらいの大きさの蟲。中からは見えなかったそれは、二つの鎌を上げてじっとマイアスティを見下ろしていた。

 幼い兄妹は立ち竦んでいる。ディノは彼らの脇をすり抜けて前へ出た。

 蟲を刺激せぬように静かに、少女の背へ手を伸ばし――


「来ないで」


 彼女は言う。

 決然としたその声は、少しだけ震えていた。

 どこからともなく甘い香りの風が漂う。黒い鎌の片方がゆっくりとマイアスティへ降りる。


「殿下!」

「だめよ」


 彼女の制止を今度のディノは聞かなかった。マイアスティに振りかからんとする鎌を留めようと剣を振りかぶる。

 だが、それを為すより先に彼は後ろへ飛び退いた。もう一振りの鎌が彼の体を両断しようと弧を描いて振るわれたのだ。マイアスティはその弧よりも内側にいる。


「殿下! お逃げ下さい!」


 彼女にそんな動きはできないと分かっていながら叫ぶ。

 蟲は、ゆっくりと器用にもう片方の鎌で少女の腰を挟んだ。

 折れそうに細い体が鎌に両断される光景を、ディノは否応なしに想像する。

 けれど現実はそうならなかった。鎌は少女の腰をそっと摘まみ上げて持ち上げたのだ。

 蟲は離れた目の間にマイアスティを掲げる。人間には高々と見えるそれは、けれど蟲にとっては顔の高さだ。ぐるぐると動く複眼が少女を見つめる。


 ――吟味している。


 他の犠牲になった人間たちに対するものとは明らかに違う反応だ。蟲に彼女の身分が分かるのか、それとも白い絹服が珍しいのか。

 ともあれ、好機は今しかない。ディノは再び距離を詰めようと駆け出す。

 彼女さえ取り戻せればいい。彼女さえ。彼女さえ――


「……殿下」


 その声が聞こえたわけではないだろう。

 しかしディノの視界の中、マイアスティは身を捩って振り返る。

 まだ十五歳でしかない彼女は、街を焼く炎に顔を照らされて、微笑んだ。


「ディノ、聞いて」


 もう何年も昔、幼い彼女に同じ言葉を言われたと、彼は思い出す。あの時彼はまだ剣の修行中で、間が悪く騎士団長にひどく打ち据えられてぼろぼろの時に、彼女に見つかったのだ。

 小さなマイアスティはそれを見ていたく驚いた。どれほど「これは必要なことなのだ」と説明しても心配げな顔のままだった。彼女は温かい小さな両手で彼の手を取って言った。


『ディノ、聞いて。必要なことだとしても、あなたが傷つくのは嬉しくないわ』


 彼女のそんな優しい言葉を忘れた日は一日たりともない。けれど何故、今思い出すのか。

 腰を挟まれたままのマイアスティは穏やかに、誇らしげに言う。


「国が滅んでも、人は生きるのよ」


 彼女はそう言って。

 そう言って。

 ディノが見上げた視界の中で、彼女の体は真二つになった。

 びしゃびしゃと降ってくる血の温かさは、記憶の中の手の温度と同じだった。

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