第4話 生まれた時と逆に
「あそこで受付だよ。気を付けて行ってきな」
船頭は決まり文句としてか、そう言ってくれたが、どの道浮舟の発着場は柵に囲まれていて、教えられた建物に入るしかなかった。
建物は地上にある分室と同じで、真白い小さな四角の建物だ。それだけ見ていると、自分がまだ下にいるような気がしてしまうが、振り返ると景色は空だ。人の背丈くらいの高さの柵は浮島の内側にしか設置されていない。足を踏み外せばたちまち地上に帰れるだろう。
ディノが建物に入ると、中は意外に広かった。もっともそれは彼が地上の分室に慣れているから思ったことで、分室は同じ大きさの建物にいくつかの面会室があるのに対し、ここは一つだけだ。受付が右にあり、正面の扉はそのまま島の内側に繋がっているようだった。
「こちらで通行証を拝見します」
受付にいる神官が軽く手を挙げてディノを招く。彼が「お願いする」と通行証を出すと、神官はよくそれを確認した。
「では、これをお渡しします。滞在許可証を兼ねているので、中では決して外さないようにしてください」
通行証と引き換えに神官が渡してきたのは、白い栞のような布だ。糊を効かせてあるのか、ぴんと板状に固まっている。ディノが困惑すると神官は「手首に巻いてください。勝手に締まります」と教えてくれた。言われた通り左手首に当てると、布はひとりでに手首に沿って、ぴたりと締まる。
「浮き出た数字が残り滞在日数です。図書館に潜っている時も確認を怠らないように。日数が切れると滞在許可証は黒く染まります。そうなると神殿守護獣が来てしまいますから……期限を破らないことが肝心ですよ」
説明を聞きながら、ディノはしかし別のことに気を取られていた。
手首に巻かれた許可証に浮き上がってきた青い数字。日数だというそれは――
「これは、何かの間違いではないのか?」
「いえ、合っていますよ」
大抵の人間が、滞在日数は三日だと言っていた。ディノが話を聞けた二十二人がそうで、例外は一日が五人と一週間が一人だった。
だが、ディノの腕輪に浮き出ている数字は三年だ。こんな期間は聞いたことがない。
彼の動揺を見た神官は冷静に付け足す。
「あなたの大陸神殿への貢献は、滞在日数に換算するとこうなるというだけです。滞在中、宿坊は無料で開放されています。食事でもそこで出していますが、食事の持ちこみが禁止されている場所はあります。中の地図や各建物入口に記載されていますので、注意してください」
「あ、ああ……ありがとう」
「では、よいご滞在を」
あっさりとしたその言葉に押されるようにして、ディノは反対側の扉から出る。
広がっていたのは、少年時代に見たものと変わらぬ景色だ。
右手には緑豊かな森が広がり、左手には白い石造りの建物群が見える。
正面には円形の広場があり、その遥か向こうには陽の光を反射して輝く半球状の大きな建物が建っていた。あれがこの浮島の中心、大陸神殿の中枢部だ。
きらきらと光って見える神殿建物に、ディノは気を取られる。
ここまでが長かったと思い、だがここからだ、とも思う。
「……三年か」
思ってもみなかった滞在期間に驚いて惚けてしまった。この数年間、何も成しえていないような徒労感に襲われることも少なくなかったが、大陸神殿がそれを評価してくれたことで少し救われた。けれど、そんな気分に浸ってしまうことはよくない。
――三日だけしか滞在できないなら、真っ先に図書館司書のところへ向かおうと思っていた。
だが三年が許されるなら、まずここでの生活基盤を確かめた方がいいかもしれない。
ディノは建物群を見やる。宿坊があるというのは向こうだろう。彼は背負っている少ない荷物を振り返った。
「いや、違う」
気を緩めては駄目だ。
自分は五年前のあの夜からまだ何も前進できていない。何の結果も出せていないのだ。ここで「三年ある」と油断してしまうのは違う。自分が足を止めていいのは、マイアスティの遺体を取り戻せたその時だけだ。
だから彼は真っ直ぐ円形の広場の方へ踏み出した。案内板の類はない。ここに入れる人間は多くないので、そういった利便性は必要ないのだろう。
彼は広場に差し掛かり、そこを通り過ぎる。
昔ここを通った時は、小さなマイアスティを抱き上げていた。その重みをよく覚えている。二つになってしまった彼女の体はもっとずっと軽かった。今でもあの時のことを思い出す度、吐き気に苛まれる。彼の心は変えられない過去の時に在るままだ。
ディノは広場を通り過ぎ、青草に挟まれた舗道を行き、半球状の神殿建物へ辿りつく。
光を反射する建物は、半透明の貝殻のような素材でできているようだった。入口は解放されており、中に入るとすぐ脇に受付があった。ディノはそこにいた神官に声をかける。
「すまない、神獣について知りたいのだが――」
「それなら地下図書館の書棚千百二番に資料があります」
「いや、申し訳ないが古語は読めないんだ。詳しい司書を紹介して欲しい」
図書館でもある神殿に来て、いささか不躾な願いだとは思うが、ディノが難解な資料まで読みこめるのは汎用語しかない。この神殿図書館にある資料はもっとずっと膨大だ。
それに、ここにはいるはずなのだ。大陸でもっとも神獣に詳しい人間が。
神官はじっと彼を見つめる。
大陸神殿に従事する神官たちは、同じ白い神官服を着て、髪もまとめて制帽に入れている。彼らは意識して個人をいうものを消そうとしているようだ。
だがこの時の神官からは、明確な意思のようなものが感じられた。
「あなたは、権衡都市アランディーナの縁者ですか?」
「知っていたのか」
いささか驚くディノに、神官はかぶりを振る。
「個人の情報を神官内で共有するということはありません。ただ、ここ数年で神獣による大きな被害が出たのはアランディーナくらいですから」
その言葉にディノは口をつきそうになった感情をのみこんだ。
やはり大陸神殿は、あれが神獣の仕業だと確定していたのだ。憤りに似た感情が一瞬湧き立つが、大陸神殿にできたことは何もなかっただろう。あの夜何もできなかったのは彼の方だ。
神官は半円状になっている空間の片隅を指差す。そこには地下へと降りていく階段があった。
「あちらを降りられるところまで降りてください。その先に彼女がおりますので」
「……ありがとう」
「彼女はほとんど上まで来ません。ここ数年の地上の知識もありません。アランディーナのことも知らないでしょうが……」
「大丈夫だ。ちゃんと説明する」
この五年間、自分に起きたことを説明する機会は何度もあった。
慣れたとは言わない。それはいつでも同じ痛みを彼に呼び起こす。
ただ説明が上手くなったとは思う。人に説明することは、あの夜のことを整理するのと同じだ。それを繰り返せば説明は流暢になる。あの夜を高みから俯瞰するだけの言葉が揃う。説明を惜しむ気はない。あの夜を未だに追い続けているのは自分の我儘だからだ。
ディノは神官に礼を言って階段へ向かう。
降り始めてすぐ周囲の景色が変わった。背の高い本棚が渦巻き状に並ぶ階へ、階段はその先も下へ続いている。彼はそこを降りていく。
降りていく。降りていく。
どれほど降りても景色には変わりがない。本棚が満たす広間が続くだけだ。
大分地下深くにまで降りた、と思った彼は、そもそもここが遥か空中であることを思い出す。
登って、降りる。その繰り返しに思えていつの間にか遠くにいる。あのままマイアスティに仕えていたなら、きっとこんな日は来なかっただろう。
それとも、彼女と二人で逃げきれたのなら、今でもともにいる未来はあったのだろうか。彼女と二人であてどない旅を続けながら、国を滅ぼした蟲の正体を探るような日が。
『ディノ』
女の声に呼ばれた気がして、彼は足を止めて振り返る。
そこに誰もいないことは分かっていても、何度でも振り返ってしまう。
振り返るのをやめた時、きっと自分は死ぬのだろう。
彼は再び階段を降り始める。階を下るごとに少しずつ、照明が暗くなっていく。
その終わりは唐突なものだった。
「水?」
新たな階段の入口が水没している。こんなことがあるのか、ディノは近づいて水の先を見ようと目を凝らした。だが暗くて階段の途中までしか見えない。下の階にも本棚があると影でかろうじて分かるが、そこの本は駄目になってしまっているだろう。
相当下まで降りてきたので、神官は知らないのかもしれない。ディノは教えに戻ろうと階段を戻りかけて――ふと気づく。
『降りられるところまで降りてください』
神官は確かにそう言ったのだ。
ここで引き返すということは「これ以上降りられない」と判断したことになる。
ディノはもう一度暗い水で浸された階段の先を覗きこんだ。
今度は逡巡しない。彼は荷物を床に置くと、一歩踏み出した。
ずぶり、と重い感触が返る。幻術か何かではないらしい。実際の水だ。ディノはもう一歩を踏み出す。遅れて靴の中に水が染みこみ出す。冷たくないのはせめてもの幸いだろう。
彼は水の中へ緩慢に降りていく。服を着たままのせいか体の重さか、腰から胸へ達しても水の反発は大きくない。顎に水がつく。
ディノは目を閉じた。沈む両耳を、ぞっとする感触が撫でていく。
水は幻ではないようだ。それが通り過ぎた頃、彼は暗い水の中を潜っていた。どうしても浮いてしまう体を、水を搔いて下へ降りる。降りた階の作りは上と同じになっているようだ。次の階段が暗い中で朧げな影として見える。ディノはいったん上に戻り息を継ぐと、水底に見える次の階段めがけて潜っていった。そこを抜ける。下の階はまた水中だ。
潜る。降りていく。
いつの間にか何かを考える余裕はなくなっていた。思考が回らない。息が続かない。
生まれてきた時の逆を辿るように暗闇の底へ。
そんなことを数階分続けた時、ふっと底の方に青い光が見えた。
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