自殺マナー

阿僧祇

自殺マナー

 私は死んでしまった祐樹のために、錆び付いた鉄の踊り場に小さな花束を供えた。


 私は踊り場から見える街並みを見下ろした。この非常階段の踊り場は、この町ではとても高い8階の雑居ビルにある。私は踊り場の柵に手をかけて、下を覗き見た。すると、下には、非常階段の踊り場が下の階になればなるほど段々と小さくなっていき、1番下の踊り場は、非常に小さく、裸眼で暮らしてきた私でもぼやけて見えるほどだ。


 私は8階下の焦点の合わない灰色のコンクリートの地面を眺めると、あまりの高さに体を身震いさせた。私は手すりから手を離して、後ろへ一歩下がった。そして、息を1つ吐いて、心を落ち着かせた。私は祐樹が最後に見た景色を見て、改めて疑念が深まった。


 なぜ、祐樹は死んだんだ?


 祐樹は大学時代からの友達だ。明るい奴で、いつでも悩みのなさそうな幸せそうな奴だった。もちろん、自殺なんてするとは思っていなかった。そして、私は祐樹から相談を受けていた。祐樹はいつものような明るい笑顔でなく、真剣な顔をしていた。


 なにか、不幸事でもあったのかと思ったが、彼の口から語られたのは、全く逆だった。


 祐樹は来月に結婚式を挙げるので、連絡の取れない友達に知らせを入れて欲しいとのことだった。私は祐樹としばらく楽しく談笑した後、お前の花婿姿を楽しみにしていると言って別れた。


 しかし、祐樹はその翌日にこのビルから飛び降り自殺をした。警察は事件性はなく、自殺であると決定づけた。

 

 だが、私はそんなことを信じることはできなかった。結婚を間近に控えた人間が自殺をするものか、なにより、あんな嬉しそうにしていた祐樹が自殺することは何かおかしい。


 かと言っても、殺されたなんてことがあるだろうか? 


 私は祐樹が自殺した後、祐樹の婚約者や大学時代の共通の知人、祐樹の職場の人間などと話をしたが、恨まれるどころか、やはり、良い噂ばかりだった。大学時代とずっと変わっていないらしい。


 なので、私は刑事ではないが、事件現場で何か見つけられないかと、祐樹の飛び降りた場所に来たわけだ。しかし、私に名探偵のようなずば抜けた推理力などというものは持ち合わせていないので、この現場に来たとしても特に引っ掛かるものはなかった。


「どうかなされましたか?」


 私の背後で囁かれた声に驚いて、私は勢いよく後ろを振り向いた。すると、そこには6,70代の男が立っていた。その男は肩回りはがっちりとしていて、年齢の割に腰は曲がっていない。そして、立派に伸ばした白い無精ひげを携えて、細い目で私を見つめている。


「いや、もしかして、まずいことを考えているんじゃないかと思って、声をかけただけなんですがね。」


 そのひげを生やしたお爺さんは、私を自殺を考えているのだと勘違いしたらしい。確かに、踊り場で、手擦りの近くでとどまっていたらそのように考えるのかもしれない。


「いや、違いますよ。……友人のお見舞いに。」


 私がそう言うと、お爺さんは小さく何回かうなづいて、理解した様子だった。そして、私の足元の花をじっと見つめた後、口を開いた。


「ああ、そういうことか。えーっと、確か、及川祐樹さんがここで死んだからねえ。」


 私は急にお爺さんの口から祐樹の名前が出てきて、びっくりした。


「祐樹を知っているんですか?」


 私は前のめりになって、お爺さんに詰め寄った。


「ああ、私の店のお客さんだからね。お客さんは全員覚えることにしているんだ。」

「そうなんですか。祐樹を知っているんですね。ってことは、祐樹が自殺した日のことを何か知りませんか?」

「えっ、いきなりそんなことを言われてもなあ……。


 でも、確か、及川さんが私の店に寄った後、飛び降りたらしいとは警察の人から聞いたけどねえ。」

「そうなんですか。」


 何か買い物をした後に、自殺? 余計におかしいじゃないか。


「ところで、あなたは何のお店をやっていらっしゃるのですか?」

「ああ、靴屋ですよ。及川さんは結婚式のために靴を新調したいと、私の店にいらっしゃいました。」


 じゃあ、余計におかしい。


 結婚式の靴を買いに来て、自殺だなんて。もしかしたら、もっと詳しく聞けば何か分かるかもしれない。


「では、」

「ああ、長くなるようなら、私の店でお話をしませんか? 立ち話は老体にはこたえるのでね。」


 おじいさんは私の話を遮るようにそう言った。


「すいません。つい前のめりになってしまいました。」


 そう私が言うと、お爺さんはビルの扉を開き、手をビルの中へと向けた。先に入ってくださいという意味だろう。私はお言葉に甘えて、中へと入った。お爺さんの視線は少し下がっていた。




 私はお爺さんに案内されながら、ビルの中の一角にある扉を開くと、10畳もない狭い店内の壁一面に様々な靴がびっしりと綺麗に整列されていた。一見、革靴などが多いようだが、スニーカーやハイヒール、ローファーなど様々な靴が並んでいる。


 だが、その靴をよく見ていると、その靴の中に、たまに、汚れが付いていたり、明らかに、履き古したような型崩れを起こした靴がある。


「私の店は中古靴専門でやっているんだよ。」

「はあ、中古の靴の専門店はあまり聞いたことがないですね。」

「狭い業界ではあるが、意外とこの中古靴は人気があるんだ。なんたって、これで私は50年やっているんだからね。」

「そうなんですか。


 ……ところで、祐樹が飛び降りた日のことを詳しく教えてくれませんか?」

「ああ、そういう話だったね。それはいいんだが、お客さんの名前は何て言うんだい?


 ……ああ、すまない。職業病で、あまり名前の知らない人とは話したくないんだよ。」

「私は及川祐樹の友人で、青野昌平です。」

「青野昌平さんね。覚えておくよ。


 ……ああ、及川さんの話だったね。及川さんはさっき言った通り、靴の新調に来たんだが、私の店が中古靴専門店だってことが分かったからか、何も買わずに出て行ったよ。


 ……そういえば、この店内をしばらく見回った後、急に血相を変えて、店を出て行ったね。」

「本当ですか!」

「ああ、何かこの店にあったのか分からないが、ある商品を見つめた後、すぐに店を出て行ったよ。」


 どういうことだ。


「ああ、確かこの商品だ。」


 お爺さんはおもむろに壁に整列された靴を1つ取り出して、私に見せてきた。その靴は、白いスニーカーだった。特段変わりのない普通のスニーカーで、靴紐に何も書かれていない値札が付けられていた。


 だが、何か見覚えがある。とても最近見たような……


「このスニーカーは、私の好きなデザインでね。私はずっとこのスニーカーの中古品が欲しかったんだよ。」


 私はお爺さんのその言葉を聞いて、はっとした。


 私は急いで、店の扉を開いて、外へと飛び出した。そして、非常階段への扉を開いた。そして、階段を下っていこうと思った時、私の体は何かに掴まれて、進むことができなくなった。


 私の腹に追いかけてきたお爺さんの腕が巻き付いていた。お爺さんの力はとても強く、私は動くことができなかった。そして、お爺さんは私を軽々と持ち上げ、非常階段の柵の外へと私の体を押し付けた。そして、お爺さんは私の体を足元から持ち上げて、靴を足から引き剥がすように、階段から突き落とそうとした。


 私はそのまま、なすすべなく、地面へと落ちていった。そして、お爺さんは不敵な笑みで、私の白いスニーカーを両手に持っていた。


 それが落下しながら見えた最後の景色だった。



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「お久しぶりです。新しい中古靴は手に入りましたか?」

「ええ、そこに、岩井さんの欲しがっていたあの靴がやっと手に入りました。」


 店主の指さした白いスニーカーの値札には「青野昌平」と刻まれていた。

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自殺マナー 阿僧祇 @asougi-nayuta

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