第伍話 皿屋敷

 深夜12時。

 町田は薄暗い路地を一人歩いていた。


 今日は会社の飲み会だったのだ。

 久しぶりに酒を飲み、いつも以上に食事にも手をつけてしまった。これはちょっと筋肉に悪影響を与えかねんな、と酔い覚ましも兼ねて歩いて帰宅するところだった。


 コツコツコツ……と町田の軽快な足音だけが聞こえる。大通りから数本、中に入ったこの路地には、車はおろか人の行き来さえない。

 そして、普段通らない道だからだろう。突然現れた柳の木と古びた井戸に町田は何の違和感も感じなかった。いつの間にか周囲にはうっすらと霧がかかり、いかにも「何か出る」雰囲気がたちこめるが、当然町田はそんなこと気付きもしない。

 すると。


「いちま〜い、にぃま〜い、さんま〜い」

 女性の少し暗くてくぐもった声が聞こえてきて、町田はふと足を止めた。


「よんま〜い、ごぉま〜い、ろくま〜い」

 初めは何かの間違いだろうと思った。しかし、町田の耳にはっきりと何かの枚数を数えている声が聞こえてくる。そしてどうやら声は、目の前にある井戸の中から聞こえてくるようだった。


「ななま〜い、はちま〜い」


 テンポよく繰り返される言葉に、町田は無言のまま少し体を動かしながら井戸を見つめていた。


「きゅうま〜い……あと一枚足りない……」

 その言葉とともに、井戸の中からお菊と呼ばれる幽霊が姿を現した。、幽霊の姿を見た時点で人は震え上がり、あまりの恐ろしさに命を落とす。だが、今回の相手は普通ではなかった。


「な……なにしてるの?」

 震え上がったのは幽霊の方だった。


 まさか、目の前にいる人間が、上半身タンクトップ姿になってスクワットをしているとは思ってもみなかったのである。

 

「ん? 終わり? すっごくいいテンポだったんだけど」

「て……てんぽ?」

「ああ、スクワットをするのにちょうどいいテンポだった!」

「……スクワット?」

 

 何を言っているのかしら? という表情でお菊は町田を見つめた。そして気付いてしまったのだ。「あ、こいつは私のことを幽霊だと思っていない」と。であれば、わからせるのみ。そうすればこの男も……。


「う〜ら〜め――」

「もう一回いいかな?」

「はい?」


「もう一回、一から数えてもらっても?」

「も……もう一回? 最初から?」

「ああ! 少し体を動かさないとね、今日は食べすぎちゃって!」


 全く理解できなかったが、お菊は今度こそ震え上がらせてやろうと井戸の中へと姿を消した。


「さぁ、どうぞ!」

 町田の声を聞いて、「さぁ、どうぞ!」じゃねぇよと思いながらも、お菊は再び数え始めた。

 

「いちま〜い、にぃま〜い、さんま〜い」

「ふっ、ふっ、ふっ!」


「よんま〜い、ごぉま〜い、ろくま〜い」

「ふっ、ふっ、ふっ!」


「ななま〜い、はちま〜い」

「ふっ、ふっ!」


「きゅうま〜い、あと一枚――」

「ふっ、まだだっ!」

「はひっ?」

「まだ数え続けてくれ!」

「は?」


「じゅ、じゅうま〜い、じゅういちま〜い……」

「できれば、『枚』をつけないでくれ!」

「え?」

「じゅうに、じゅうさん……これでいいの?」

「ああそうだ! いい具合だ!」

「じゅうよん、じゅうご……」


 一体何をしているのかとお菊がそっと井戸から顔を出すと、町田はスクワットを繰り返していた。お菊のカウントに合わせてゆっくりと太腿が地面と平行になるまで下ろし、そして上げる。

 その真剣な表情に、思わずお菊は見とれてしまっていた。


「数が止まってるゾッ!」

「は、はひっ! じゅうろく、じゅうしち――」

「まだまだぁ! 百まで行こう!」

「ひゃ……ひゃくぅ?」


☆★☆


「きゅうじゅうはち、きゅうじゅうきゅう、ひゃく!」

「――っはぁ! はぁ、キくぅ!」


 お菊が百まで数えると、町田は地面に腰を下ろした。太ももはパンパンで、肩で息をするほど疲労困憊こんぱいであった。

 ――すごい。

 お菊は心からそう思った。

 私の声に合わせて体を上下しているだけなのに、どうしてこんなにも感動してしまったのだろう。気がつくとお菊の目から涙があふれていた。


「わっ! す、すまない! 無理強いさせてしまったかな?」

 町田がお菊の涙に気付いて駆け寄る。ううん、とお菊は顔を横に振り、笑顔を見せた。

「なんか――感動しちゃって」


「あなたのカウントのおかげで、いい運動ができた。これで今日の飲み会の分はチャラになった」

「……私、あなたの役に立てたのかな?」

「ああ! 十分すぎるほどに」


 町田が右手を差し出した。ごつごつした、力強い手だった。お菊も少し照れながら右手を出し、がっしりと握手を交わした。


「また……来てもいいかな」

「……待ってる(ぽっ)」


 人間と幽霊の心が通じ合った、感動的な瞬間であった。





 それからしばらくの間、この場所は「夜になるとスクワットおじさんの吐息が聞こえてくる」心霊スポットとして、話題になったという。

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