第参話 口裂け女
仕事終わりの帰り道。まだ、夕日が街を真っ赤に染めている時間帯である。そんな中、町田は人通りがない路地で背後から声をかけられた。
「ねぇ、わたし綺麗?」
町田が振り向いた。
そこには、顔の半分を覆うほどの大きなマスクをし、赤いロングコートに身を包んだ、髪の長い女性が立っていた。
そう。かの有名な口裂け女である。
しかし、町田は特に動じる様子も見せず、まじまじと彼女を見つめた。
「……な、なによ。そんなに見つめないでよ」
口裂け女が少し照れる。町田の目線が口裂け女の顔から下がり、足元を見る。そして、彼は口を開いた。
「綺麗だと思うよ」
「本当に? これで――」
「特に美しいのがふくらはぎ。毎日、結構な距離を歩いているね、いい筋肉のつき方をしている。失礼だが、おそらくそのコートの下にも相当鍛えた体が隠れているに違いない!」
マスクを外そうとした口裂け女だったが、町田の怒涛の
そして町田は止まらない。
「そうだな、一つだけ苦言を呈するならば、運動量に対してタンパク質が不足しているのかもしれない。あなたの髪、ちょっとダメージが多いよね。これは毎日摂取しているタンパク質が、主に筋繊維の回復のために使われているからだ。タンパク質は髪の毛や爪の材料にもなる。おそらく、そこまで追いついていないんだろう。だからね――」
一体こいつはなんの話をしているのだろうか? 口裂け女は目の前で筋肉やタンパク質について熱弁する町田のことが怖くなった。
しかしここで引いてしまっては口裂け女の名が
「これでも綺麗?」
さあ、恐怖に
今できうる限りの一番恐ろしい顔をして、口裂け女は町田に迫った。
「ああ、実に綺麗だ!」
「えっ?」
町田は目を輝かせながら、口裂け女の顔を見つめて言った。そのあまりの純朴さに、口裂け女の動きが止まる。そして彼が心からそう言っていることを感じ、顔を赤くしてしまった。
ちなみに、町田はただのマッチョなおじさんであり、決してイケメンの
「そのフェイスライン! 毎日トレーニングをしている証じゃないか! こんなにくっきりと輪郭が見えているって、あなた相当鍛えてるね。いやぁ、素晴らしい! そして、ほうれい線も全くといっていいほど目立たない! これは常に口の周りの筋肉を使っている証拠だ……その大きな口自体が筋トレといっていい……なんと
町田は一気にまくし立てると、「あー」と自身も大きく口を開けてみた。「いやいや、あなたのように開けるのは難しい。はっはっは!」と頭を
――これまで私の大きな口を見て怖がる人は数知れず……でも、このマッチョは私の口を素晴らしいと言ってくれた……。ああ、なんだろうこの気持ち……これってもしかして――
口裂け女が少女漫画のような表情をして恋に落ちそうになったとき、町田が背負っていたビジネスリュックから小さな袋を取り出し、彼女に手渡した。
「これは――」
「プロテインだ。水に溶いて飲むといい。筋肉だけでなく、髪も綺麗になるはずだ」
「ど、どうして私なんかのために……私はあなたをころ――」
それ以上は言わなくていい。町田は口裂け女の口元に人差し指を近づけた。
「あの有名なボディビルの神様、
満足そうな顔をしている町田に対して、口裂け女は一体何を言われたのか、全く理解することができなかった。
それ以降、この地域一帯に「マスクをつけたやけに美人なお姉さんがいる」という噂が広まった。もう「わたし、綺麗?」と聞かなくてもみんなが答えてくれるのだ。「あなたはとても綺麗だよ」って。
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