悪魔と暮らす最初の一日(加賀美智彦×両角紅緒)
お兄ちゃんは優しいねえ。
加賀美少年はそう言われて育った。穏やかな両親と可愛い弟。何不自由ない暮らし。
すくすくと育った優しい少年には、生まれつき共感能力が欠けていた。
人がどうして喜ぶのか、悲しむのか、怒るのか、少年にはわかっていなかった。
わかっていないなりに、たとえば何が出来上がるかわからなくとも手順通りに作業すれば注文通りのものが出来上がるように、その完成品の価値が自分にわからなくとも作り方通りに作ればそれが受け入れられるとわかっているように、彼は優しい人間の顔をして生きてきた。
人がどうして喜ぶのかはわからないが、人が喜んでいればにっこり微笑むのが正解。人がどうして悲しむのかはわからないが、人が悲しんでいれば心配そうに顔を覗き込むのが正解。人がどうして怒るのかはわからないが、人が怒ったら殊勝な顔でそれを黙って聞くのが正解。
そのようにして生きてきた。それ故に少年は誰より人の感情の機微に敏感であり、誰より人の期待通りにリアクションを取ることができた。
少年は誰より人に優しくすることができたのだ。
それだけならよかった。少年は決して人の心を理解することはなかったし、自分のことを理解できる人間に出会うこともなかったが、満たされることを知らぬ虚しさを感じながらでも少年には親切で無害なまま生きる人生もあったのだ。
少年にとって、あるいはその周囲にとって本当に悲劇であったのは――――少年は共感能力が欠如しているだけでなく、それでも確かに生き物を愛していたということだった。
「松葉杖はね、こうして使うといいですよ」
看護師が紅緒の腕を取って、支えながら松葉杖を持たせる。「どうも……」と紅緒は言いながら会釈した。
仕事中、危険な脚立の使い方をしていた新入りの事故に巻き込まれ、右足にひびが入った。完全に巻き込まれ事故だというのに連帯責任で怒られたうえ、しばらくは仕事にならない。まったく、ため息も出るというものだ。
おそらく紅緒と同年代であろう男の看護師が、「早く良くなるといいですね」と笑っている。
ああ、完璧なビジネススマイルだな。
ビジネスっていうか、福祉スマイル? 誰もが好感情を抱くような、自然な笑顔。でもそれが張り付けた仮面のように見えるのは、決して紅緒が穿った見方をしているからではないだろう。
まあ、なんだって構わない。紅緒も別に人間が好きなタイプではないし、仕事さえしてくれたらどうでもいい。
数分ほど松葉杖で歩く練習をして、紅緒は看護師に「大丈夫そうなんで、今日は帰ります」と頭を下げる。看護師は「お大事に」とにっこり笑った。
それからしばらく経ち、紅緒はギプスを外してもらうために再度病院を訪れていた。綺麗に切断されたギプスの中から出てきた足は、いつもより細くなっていて心もとない。
「いきなり体重かけるとかジャンプしたりしないでね」と指導され、そんなことする勇気はないなとぼんやり思う。ようやく解放されて診察室を出ると、先日松葉杖の使い方を教えてくれた看護師が前から歩いてくるところだった。
「あ、」
「どうも」
「骨、くっついたんですね」
「おかげさまで」
「よかった」
相変わらず完璧な笑顔。名札には『加賀美』の文字が見え、名前までお綺麗だこと、なんて妙にひねくれた気持ちになった。
「思ってもないことよく言えるなぁ」
看護師が「えっ?」と、目を丸くする。なぜだか紅緒まで驚いて目を丸くしてしまった。
声に出ていた。自分でも信じられないが、考えていたことがそのまま。
「あ、え? あー……なーんて……ね」
この場を何とかする方法がわからず、よくわからないごまかし方をしてその場を離れる。
最悪だ。内心がどうかなんて傍から見てわからないものを、勝手に決めつけた挙句それを本人の前で口に出した。大体、本心からの言葉じゃなかったからといってなんなのか。大人なんだから、仕事中に耳障りの良い言葉を並べることに何も不思議はない。
病院の外まで歩いてきて、「謝るか……?」とちょっと振り返る。「まあでも不自然だよね、逆に。あーあ、いい歳して反省案件だ」と頭を掻いた。
それから、帰り道のことはよく覚えていない。
目が覚めたとき紅緒は、そこが家でないことはすぐにわかった。病室とも違うように思い、ぼーっとしながら「夢? これ……」と呟く。
「ああ、目が覚めたか。気分はどうかな」
顔を覗きこんでくる男を見て、「看護師……さん?」と眉をひそめた。「こんにちは、確か両角さんだよね」と男は快活に笑う。
「ここ、どこ……?」
「研究所、かな」
「なんで?」
うーん、と顎に手を当てた男が「昼間の様子がおかしかったから何か勘づかれたかと思ったけど、その分じゃあ取り越し苦労だったか」とため息をついた。
「まあでも、ここまでやって帰すわけにいかないしなあ。ちょうど被検体も欲しかったし」
「えっと……何言ってます? 加賀美さん、ですよね。昼間のこと怒ってますか? あれは私も失礼だったと……」
「いや、別に怒ってるわけじゃない。でもああいうことはあんまり口に出さない方がいいね。人間、何を隠しているかわからないものだし」
「すみません。謝りますから……」
言いながら紅緒は体を動かそうとするが、どうも手足が固定されていて一切動かせない。紅緒はここに来て初めて、自分が非常に危険な立場にあることを知った。
「……私のことどうするつもり?」
「治験って聞いたことある? そういうアルバイトをしてもらおうと思う」
「同意してない」
「どうでもいいな」
違和感を覚え、紅緒は加賀美の顔をまじまじと見る。
「あなた、あの看護師と違う? 誰?」
「おや……。まあ表の顔と裏の顔ってのは誰にでもあるものだよ」
納得しかねて紅緒はその後も加賀美の顔を見つめた。加賀美は肩をすくめ「君、体は丈夫みたいだから期待してるよ」と立ち上がろうとする。
「私のこと、殺す気?」
「別に君を殺害するつもりはない。僕には君に対する殺意も害意もない。結果的に死に至ることはあるかもしれないが」
「はぁ……最悪。人の心なさそうとは思ってたけど、こんなにヤバいやつだとは思わなかった」
「“人の心なさそう”?」
「ないでしょ、だって。看護師やってる時も透けて見えてたよ。何もかもが他人事なんだもん」
瞬きをした加賀美が、再び椅子に座り直した。じっと紅緒を見る顔には、あの張り付けたような笑顔は欠片もない。
「他人事? それは、僕の言動がってことかな」
「そうだけど? なんなの?」
ひとごと、と加賀美はなぜか舌の上で転がすようにそう呟いた。それから首をかしげて、「僕の言動が他人事だって? 他の人間と何が違う?」と眉を顰める。
何を言ってるんだろうこいつは、と思いながら紅緒も彼と同じような顔をしてしまった。それから「もしかして」とからかうように笑う。
「あんた、自分が他の人間と同じだと思ってる? 全然違ったよ、看護師やってる時も」
口をぽかんと開けた加賀美に、紅緒は目を細めて「あんた、人間好きじゃないでしょう」と指摘した。加賀美は口を閉じ、眉根を寄せる。
「僕は生き物が好きだ。とりわけ人間が好きだ。知能が高いほど、生物は面白い」
紅緒は言葉を咀嚼するように黙り、加賀美のことをじっと見ていた。それから、「ああ」とどこか切なげに眉を顰める。
「私……人間のこと好きじゃないなって思ってた。でも、好きじゃないだけでよかったな。だってあんた、生きづらそうだもん」
「……どういうことだ?」
言葉を詰まらせる紅緒に、加賀美は「どういうことなんだ? 教えてくれ、他と何が違う?」と答えを求める。
紅緒が口を開いたその時、どこかでドアをノックする音がした。
加賀美が空咳をし、どこかへ歩いていく。
「……誰かな」
「こんばんは、加賀美先生」
「絹傘くんか? こんな時間にどうかしたのかい」
「頼まれていた機材の修理が終わったので。入ってもいいですか?」
ちらりと紅緒を見た加賀美だったが、すぐに「今開ける」と言ってその人物を招き入れた。絹傘と呼ばれた男は、ベッドに固定された紅緒を一瞥したものの特に何もコメントする様子はない。
絹傘はしゃがんで、大きなバッグから何かを取り出す。
「こんなもんでしょうかね。俺にはよくわかりませんが、動けばいいというお話でしたので」
「助かるよ。お代は組織経由でいいかな」
「気にしないでください。先生の依頼を受けるのもこれが最後ですし」
一瞬黙った加賀美が、「なぜ」と言いながら振り向く。絹傘は銃を構えており、加賀美が再度、少し笑いながら「なぜ?」と尋ねた。
「組織にとって都合のいい外道同士、俺はあなたのこと嫌いじゃなかったですよ。だから……そういうことです」
「ああ、そうだな。わかるよ。……こんな時間まで仕事だなんて、君も大変だね」
三発。音を抑えた銃で絹傘は加賀美を撃つ。血が飛んで、呻きながら加賀美はふらついた。そのまま壁にもたれかかり、沈んでいく。
絹傘はそれをしばらく見て、それからナイフを抜いた。無言で近づいてくる殺し屋に、紅緒は思わず「ひっ」と短く悲鳴をあげる。
紅緒の手足を固定していたベルトを切って、絹傘は「ここは地下だから、階段を上れば地上に出られます」とだけ言った。
「……その人、死んだの?」
「今日のことは誰にも言わない方がいいでしょうね。あなたのためにならないので」
そう言って、絹傘は紅緒に背を向ける。階段を上がっていく音が聞こえた。
紅緒は恐る恐る加賀美に近づく。目は開いているが、光がない。間違いなく死んでいる。
心の整理がつかないまま、紅緒は言われた通りに階段を上り、外に出た。
警察に行こうと思ったが、結局は絹傘の静かな脅迫ともとれる言葉に怯え、そのまま家に帰ることとなった。鏡を見ると、自分でも気付かぬうちに涙のあとができている。
恐怖からだろうか。
そう考えて、すぐにそれを否定する。
ああ、自分は────人間を好きになれないのだと漠然と思っていた自分は、
あの人でなしを嫌いになれなかったのだなと思った。
別室で一部始終を見ていた加賀美智彦は、壁にもたれてピクリとも動かない自分と同じ顔の死体を眺めた。
「まったく、ひどいことをするな。クローンだってタダで作れるわけではないんだが」
しげしげとクローンの死体を見る。それにも飽きたように加賀美はその横に腰を下ろした。壁に寄りかかり、「そうか、ついに組織から不要とされたか」と呟く。
そうとなれば、加賀美はもう終わりだろう。絹傘相手では分が悪いし、逃げたところで長くはなさそうだ。
ポケットから注射器を取り出す。いつでも持ち歩いているそれは、血管に流し込めば一時間もしないで眠るように息絶える薬品だ。
それを自分の腕にあてがう。大した感慨はない。ただ────
「そういえば彼女、変なことを言っていたな。“あの看護師と違う”だっけ。何でバレたんだろう」
思案する。彼女もまさかそれがクローンであると考えたわけではないだろうが、そんな言葉が妙に気になった。
善良な人間の真似をして社会にとけこんでも、あるいは欲望のままに生き物を
逡巡した末に、加賀美は注射器をしまった。
結局、あれ以降紅緒は誰にも相談できないまま日常を送っていた。
仕事からの帰り道、「やあ」と誰かが声をかけてくる。振り向くと、キャップを目深に被った男が手を挙げていた。
怪訝に思ってじっと見ると、男は少しだけキャップを上にずらす。紅緒は仰天し、言葉を失った。それからゆっくり、「なんで……!? あんた、死……」と言いかけた紅緒の口を、近づいてきた加賀美の右手が塞ぐ。
「僕のこと、匿ってくれないかな」
それが奇妙な共同生活の、始まりだった。
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