あなたに届け、消えない祈り(一ノ瀬隆俊×小日向尚香)

 カウンターで姿勢を崩しながら、小日向尚香は「くぅ~」と思わず喉を鳴らす。

「あー、このマグロとアボカド……シャンディガフに合いすぎ! 何で和えてるんですか、これ」

 そう訊ねると、笑いながら一ノ瀬隆俊は「一応、企業秘密かな」と言った。


 ここは、飲み歩きを趣味としている尚香が最近見つけたバーだ。バーといえば酒を呑むところで食事は申し訳程度という店も多いが、ここは料理がとてつもなく美味い。このバーテンの前職が料理人ということもあって、かなり凝ったつまみが出てくる。

「いやぁ、また太っちゃうなぁ」

「そんなに気にしなくていいんじゃないか? 不健康なほどじゃなければ問題ないさ。俺は君が美味しそうに食べるところ見ると、嬉しいよ」

「お上手なんだから。じゃ、このチーズ盛り合わせも頼んじゃおうかな」

「はいよー」

 目を細めた隆俊が料理を皿に盛りつける。尚香はそんな隆俊をじっと見て――――ため息をついた。






 オフの日の都築椿樹つづきつばきの前に、女性が座っている。例のごとく、霊である。愁いを帯びた表情で、「突然すみません」と口を開いた。

「あなた様が、幽霊わたしたちの依頼で恋愛成就をたすけてくれると聞きまして」

「何もかもが間違ってるぞ。俺の本業はサラリーマンだ。印刷会社のな」

 なぜか横で寝そべっている間田名威まだないという猫が、「本業と言うたからには副業程度には認めておるではないか」と指摘する。


「一体何なんだ。あんた、誰かとくっつきたいわけか」

「いえ。うちの夫なんです。存命の」

「またそういうパターンかよ。前から思ってたけどな、死んだらもう生きてるやつの世話なんかしなくていいんだぞ。勝手にやらせとけ」

「そうは仰いますけど、やっぱり心配じゃないですか」


 ため息をつきながら、椿樹は先を促す。女性は自分の頬に手を当てて「私が死んだのはほんの数年前です」と話し出した。

「それからというもの……あの人、すっかり気落ちしてしまって。料理人だったんですけどそれも辞めて、今はバーテンダーを」

「まあ、それも本人の勝手じゃねえか?」

「でもね、見ていられなかったですよ。あんなに料理が好きだったのに、なんにも手につかなくなっちゃって。ちょっとずつお知り合いの手伝いなんかをしながら、今ようやく軌道に乗ってきたところなんです」

「よかったじゃねえか」

「でも……」

 女性は口ごもる。「あの人これから、一人で生きていくのかしらと思ったら……心配で……」と零した。


「なので私、あの人の婚活を手伝いたいんです」

「本人は婚活してんの?」

「してません」

「じゃあ妻が勝手に夫の婚活するっていう変な話になっちゃうだろ」

「致し方なし、ですね」

「致し方なくねえよ」


 これには名威も「当人が望むのであれば手を貸してやっても良いが」と難色を示す。

「ま、亭主とやらに一度会って決めるほかないだろうよ」

「ありがとうございます」

 ため息をついた椿樹が「まったく……金曜の夜ならあいてるぞ」と仕方なさそうに言った。





 料理の仕込みをしながら隆俊は、ぼんやりと『今夜は来るだろうか、彼女』と考える。そのというのが小日向尚香のことであると認識したとき、思わず隆俊は苦笑した。

 美味しそうに食べるからな、あの人。


 少しばかり勝気に見える、しかし愛嬌のあるその表情がくるくると変わるさま。それを隆俊はカウンター越しに見ていた。あれだけ美味しそうに、楽しそうに食事をしてくれるのは、料理人冥利に尽きる。


 ふっと笑った隆俊のことを、静かに見守っていた妻が「ほんとうに、それだけ?」と虚空に言葉を投げかける。聞こえていたはずもないが、隆俊は小さく「それだけだよ」と呟いた。






 オフィスでノートパソコンとにらめっこしながら、尚香は頬杖をつく。肩が凝った。

 もちろん仕事は嫌いではないが、毎日こうでは癒しが欲しくなる。やはりペットを飼うべきだろうか、と思考を巡らせているうち、ふと隆俊の顔が浮かんだ。


「癒し、ねえ……」


 一ノ瀬隆俊が尚香にとっての癒しであった時期もあった。客の中にはバーテンダーという存在に夢を見る女もよくいるものである。隆俊は日本人離れした顔立ちで、性格も親しみやすい。彼目当ての客も少なくはなかった。尚香もカジュアルな気持ちで彼を目で追っていた。“推し”というのだろうか。彼の料理に胃袋を掴まれていたというのも大いにあるが。


 それが、彼の首もとにリングのついたネックレスが見えた時。あるいは他の客から『一ノ瀬さん、いいひとはいるの?』と訊かれ、彼が曖昧な表情で言葉を濁した時。

 ああ、この人には忘れられない人がいるんだな。

 そうわかってしまって、胸の辺りがちくちくと痛くなった。


 いつからかはわからない。

 私は、あの人に本気になってしまった。


 尚香はため息をついた。

 今まで仕事を言い訳に、恋など後回しにしてきた。最後に人を好きになったのはいつだっけ。

 あーあ、私――――


「臆病になっちゃった、なぁ」






 今日に限って残業ですっかり遅くなってしまった椿樹は、スーツのまま待ち合わせ場所まで急ぐ。ネクタイを緩め、「あー……猫に嫌味言われるぞ」と嘆いた。


「あ、椿樹さん! 奇遇ですね、こんなところで」


 そんな声に振り向くと、近頃妙に縁のある幽霊少女がふわふわと近づいて来る。「お前か……」と椿樹は足を止めた。

「その……この前は助かった。迷惑をかけたな」

「えー、なんのことやら! ところであれ以降、魔法少女さんとはいかがですか?」

「バッ……うるせえよ」

「もしかしてまだ声をかけてないんですか?」

「声ならかけてるわ。『おはよう』と『お疲れ様です』を毎日な」

「それは同僚だからじゃないですか……」

 余計なお世話だ、と椿樹は憮然とした表情を見せる。


「おお、妹御もおったのか」


 振り向くと、そこには灰色の髪を揺らす美しい青年が立っていた。琥珀色の目を細め、「遅いぞ若いの」と椿樹を見る。


「……誰だ?」

「さあ? お知り合いじゃないですか?」


 二人でじっと見つめると、青年はやや驚いた顔をして「吾輩がわからぬのか」と首をかしげた。椿樹はようやく、「猫か?」と眉根を寄せる。

「相変わらず無礼な若者であるな。普段の姿ならよいが、この姿で“猫”は呼称として不相応であるぞ。“先生”と呼ぶが良い」

「お前はなんの先生でもないだろ」

「はん、年長者に敬意をこめて“先生”と呼ぶのは何も不思議ではあるまい。近頃の若いのはそのようなことも知らぬのか」

「普段猫の姿だからギリギリ腹が立たないことも人間の姿だとムカつくな。なんで人間になったんだ?」

「そりゃあ、猫が店に入ってはまずかろう。食品衛生的に」

「それはそう」

 ふっと笑った名威が「しかし吾輩のこの顔貌をさらしては、亭主の婚活どころではなくなるかもしれぬな。全ての娘さんを虜にしてしまうやもしれぬ」と自分の顎に手を当てた。椿樹は一度だけ瞬きして、「俺たちは今からバーに行くから、この辺で」と幽霊少女に別れを告げる。


「無視か? オイ、無視か?」

「それで、旦那のバーってのはどこにあるんだったか」


 そう言って、椿樹は不満そうにしている名威を連れて幽霊妻の夫の店を訪れた。






 店に入ると、隆俊が「どうぞ。お好きな席に」と人の好さそうな笑顔を見せる。椿樹と名威はカウンターの席に腰を下ろした。もうかなり夜更けすぎだからか、店内には椿樹たちの他には二人しかいない。一人はおそらく男性。もう一人は女性で、隆俊と楽しそうに話をしていた。

 その様子を見て、名威がぽつりと呟く。

「……なんだ、おるのではないか。なかなかどうして、が」


 近くに揺蕩っていた幽霊妻が、何も言わずじっと夫のことを見つめていた。


 飲み物を頼んだ後で、名威がこほんと空咳をする。

「そこなバーテンよ」

「俺ですか?」

「ふむ。何か悩みがあるであろう」

「え……」

 グラスをかき混ぜながら、名威は「実を言うと吾輩は占い師である。普段は金をとっておるが、特別にタダで見てやってもよい」と嘯いた。

「いや……でも俺、」

「見てもらったらどうだ? 信じるかどうかは別として」

 椿樹の援護もあり、隆俊は「じゃあ見てもらおうかな」と苦笑する。客の申し出を無下に断ることもできないからだろう。


「お前さん、生まれはいつだ」

「10月18日ですよ」

「ほお。星の宿りは天秤か」


 すると先ほどまで隆俊と話していた女性客が、「そうなんだ」と目を丸くする。

「私も天秤座なんだよー。……って、急に話に入ってごめん!」

「それはそれは。お嬢さんのことも視ようとは思っていたが手間が省けたわ」

「“お嬢さん”って、どう見てもあなたの方が年下なんですけど」

「細かいことを気にするでないわ」

 名威は腕を組み、「ふーむ」と勿体ぶって二人のことを観察した。


「お前さんら、今宵はなかなか良い運気であるな。運命を共にする相手との大切な転機を迎える日である」

「今宵って……」

「もう、残り10分なんですけど……」


 隆俊と女性客はそれぞれ「運命を共にする相手との……大切な……」と呟きながらごく自然にお互いを見る。

「ほれほれ、残り9分である」と名威が煽った。


 沈黙に耐えかねたのか、女性の方が立ち上がって隆俊に何か言おうとする。

 おそらく、何を言うつもりなのか、これから何が起こるのかわかった上で――――隆俊が目をそらした。女性はハッとし、「……ごめん」とだけ言って俯く。


「……お会計、お願いね。また……」

「あ……ああ、うん。また」


 女性は足早に店を出て行った。隆俊は苦い顔のまま、その後ろ姿を見送る。

「よいのか?」と、グラスを傾けながら名威が訊ねた。隆俊は答えない。


「あら……さっきのお客さん、一人? 不用心ねえ、こんな夜更けに」


 今まで一言も発さなかった男性客が、ぽつりと言う。

「ねえ、お兄さんたち。知ってる? 最近ね、この辺りに吸血鬼が出るらしいわよ」

「吸血鬼?」

「女性を狙ってるんだって。こわいわねえ。さっきのお客さん、大丈夫かしら。誰か送って行ってあげたら?」

 ぽかんとしていた隆俊が、ぐっと拳を握って一言、「少し……外します」と断って店を出た。


 残された椿樹たちは、各々酒を煽る。

 不意に名威が、「久しいな、信くん」と言葉を発した。男性客が目を細め、「ご無沙汰してます間田せんせ」と答える。

「お元気そうで何より」

「君も息災かね」

「おかげさまで」

「知り合いか? あんた、なかなか突飛なこと言うな。吸血鬼、とか」

「そうかしら。でもありえないことじゃないのよ」

 信という男性は悪戯っ子のように片目をつむり、「吸血鬼ならここにいるしね」と言った。


「……は?」

「吸血鬼なの、あたし。やんなるわよね」

「嘘だろ、さすがに。この辺、訳ありが多すぎないか?」

「しかしあのようなことを言ってよかったのか、信くん。人間が吸血鬼きみらをおそれるようになれば、君が生きづらかろう」

「いいのよ。それにあのバーテンさんだって真に受けたわけじゃないでしょう。理由が欲しかっただけで」


 ふう、と息を吐いた信が「もうこんな時間」と呟く。「お会計はこれくらいでいいかしら。お釣りはいらないって言っておいてね」と自分が座っていた場所に紙幣を置いた。


吸血鬼あたしはそろそろ帰らなきゃ。――――じきに、夜が明けるわ」と、微笑んだ。





 やっちゃった。

 尚香はため息をつきながら、小石を蹴るような真似をした。

 今なら言えると思ったけれど、あんなの絶対に脈なしだ。逃げるように店を出てしまった。『また』とは言ったものの、もうあの店には行きづらい。

 いつからこんなに恋愛が下手になったんだろう。


 まずいなあ、普通に泣きそう。いい年して、失恋で涙ぐむなんて。可愛げのない女がそんなことしたってね。同情してほしいわけでもないし。


「あー、ダメだ。早く帰ってシャワー浴びて寝て……明日も仕事に行って……それから……」


 泣かないようにわざわざそんなことを声に出した。

 その時だった。


「尚香ちゃん!」


 尚香ちゃん、だって。私もうアラフォーだし、そんな風に呼ばれても苦笑いしか出ないはずなのに、あなたの声だからくすぐったかった。


 振り向くと、走ってきたらしい隆俊がこちらを見ていた。

 尚香は思わず「えー、なんで来たの?」と目をこする。


「やめてよ、まるで私が追いかけてくるの待ってたみたいじゃん。そんなんじゃないから。ほら、帰った帰った」


 言いながら、尚香は踵を返して歩き出した。尚香にも、プライドというものがある。こんな泣いてる姿、絶対に見せるわけにはいかない。そのうち何事もなかったような顔で店に行くことがあっても、この想いには蓋をする。

 だから、今は、見ないで。

「尚香ちゃん、話を聞いてくれ」

「いいって。来ないで」

 足早に、ほとんど走るようにして夜の街を縫う。


「尚香ちゃん」


 腕を掴まれ、彼の顔を見ないように振りほどこうとした。だけど彼の手は存外に力強くて。仕方なく尚香は、「何?」と隆俊の顔を見上げた。


「……わからない」

「わからない!?」


 何とも言えない表情で、隆俊は「ごめん」と謝る。それからそっと尚香の涙を拭った。


「答えを出すのに、きっと時間がかかるんだ。正直に全部話そうと思う。その上で君が決めてくれないか。俺が答えを出すまで、待っていてくれるか」


 どうしてだか、隆俊の方が泣きたそうな顔で尚香を見ている。すっかり涙の引っ込んだ尚香は、ただ黙ってそんな隆俊を見ていた。やがて困ったように笑い、「そんなこと言われたら、駄々もこねられないわね」と肩をすくめる。


「私もね、リハビリが必要だと思ってたとこ。恋なんて、本当に久しぶりだから」


 隆俊の手を両手で包んで、「ゆっくりでいいかもね。お互い、今さら焦ることなんてないでしょう」と尚香は言った。


 そんな二人のことを、隆俊の妻は屋根の上から見つめる。膝を抱え、「“わからない”なんて、バカな人」と呟いた。

「家に送るだけなら誰でもできるものを、他の誰でもないあなたがその人の涙を拭ったのが答えでしょ」

 ほんの少し鼻をすするようにして、手に力を籠める。「本当にバカね」と膝の間に顔をうずめた。






 ありがとうございました、と言う幽霊妻に、椿樹は頭を掻きながら「本当に良かったのか、これで」と問う。妻は曖昧に笑って頷いた。

「……何か言いたいことがあれば伝えるぞ。俺にできることはそれだけだからな」

「そうですか……。じゃあ、『あなたのこと、大嫌いだった』って。あの人に伝えてください」

「それは言えない」

 椿樹はきっぱりと言う。どうしてですか、と眉を顰める妻に「そういう嘘は、誰のためにもならねえから」と椿樹は答えた。


「……じゃあ、やっぱり――――」






「“あなたのこと、大好きだった。大好きな人には、死ぬまで幸せでいてほしいから”」

 隆俊は顔を上げる。声のした方を見ると、若い客が「ああ、悪い」と言いながら本を閉じた。

「あんまりいい台詞なもんで、声に出してたみたいだ」

「ああ、そうなんですか」

 客は本を鞄にしまう。


 なぜだか隆俊は胸が苦しくなり、「それ……なんていう本ですか? 俺も、」と言いかけたところで客が「もうこんな時間か。会計を頼む」と言ってくる。お代を置いて、そそくさと店を出て行ってしまった。


 どうしてだか懐かしい気がして、目頭が熱くなる。

 ふと、まるで『そんなこといいから』とでも言うかのようにドアの外の鐘が鳴った。風が吹いているわけでもないのにおかしいなと隆俊は歩いていく。


 ドアを開けると、そこには尚香が恥ずかしそうに立っていた。


「なんか……入りづらくて。なんでここの鐘鳴ったんだろう……? やだなぁ」


 隆俊も顔を赤くしながら、ぎこちなく「いらっしゃい」と店に招き入れた。

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