何の変哲もないキャンディの包み紙を、彼女はたまに愛しげに眺めた(佐伯剛×弱竹輝夜)

 後輩を連れて呑みに行った帰り道、剛はいい気分で千鳥足のまま帰路についていた。ふと見上げれば今宵は満月。「おお、きれーな月」と思わず呟く。


「故郷を褒めてくださりありがとうございます」


 不意に話しかけられ、剛は夢見心地で振り向く。この世のものとは思えないほどの別嬪がそこにはいた。普段なら独り言に返事をしてきた他人は怪しいが、酔っ払いには何もかもが心地よく。

「あんた、月から来たの?」と訊き返していた。相手は微笑し、「そうなんです」と言ってくる。それはどこか、剛のことを試すような表情でもあった。

 剛はことさらに愉快な気持ちになり、「ふふ……そりゃあ、」と笑う。


「随分遠くから来たんだね」


 そう、頷いていた。

「ようこそ地球へ。腹減ってないかい? 待ってな……ああダメだ、さっきもらった飴しかねえ。あげる、お月様みたいなレモン味」

 先ほど居酒屋の会計を済ませた時に口直しに貰った飴を、ポケットから出す。「地球はいーとこだよ。楽しんでね」と女性に差し出した。


 じゃあねえ、と去っていく剛を見ながら、女性はキャンディを掲げ、月に透かして見ていた。





 剛は建設会社に勤めており、近頃は現場監督も任せられるようになっていた。この日も現場が一段落し、公園で昼食をとっていたところだった。

「こんにちは」と突然声をかけられ、剛はおにぎりを頬張りながら「こ、こんにちは」と返す。目を見張るような美人だ。彼女はなぜか軽く会釈をして、剛の隣に腰を下ろした。


「……こんなとこで飯なんか食っててすみません」

「どうしてですか?」

「邪魔でしょ? 今どきますんで」

「私のこと、覚えてないんですか?」


 驚いて剛は女性をまじまじと見る。こんな美人の知り合いはちょっと思い当たらない。「すみません、どっかで会いましたかね」と言ってみた。

「あら、悲しい。あんなに熱い夜を過ごしましたのに」

 剛は思わずむせて、ペットボトルのお茶をがぶ飲みする。

「嘘ですよね!?」

「嘘です」

 何なんだ一体、この美女は。

 そう剛が憤慨していると、彼女はふっと笑って「でも素敵なものを頂いて、私の心が温かくなったのは本当です。お礼がしたくて」と言った。

「はぁ……。そんな大層なものを差し上げたつもりはないですし、気にしなくていいですよ。というか人違いでは?」

「いいえ、素晴らしいものですよ。作家からすれば、お金より余程価値のあるものです」

「なんですか?」

「話のネタ、というやつです」

「ネタ、ですか……。というか作家さんなんですね」

「申し遅れました。私、弱竹輝夜と申します」

「す、すみません。普段本など読まないもので存じ上げなくて」

「そういうつもりで名乗ったわけではありませんので。よろしければあなたのお名前をお聞かせいただいても?」

「俺ですか? 佐伯剛って言います」

 早いところ昼食を切り上げようと考え、剛はおにぎりをひたすらに頬張る。頬張りながら、「俺が何したかは思い出せませんけど、実名を出すとかじゃなければ別に使ってくれていいですよ、そのネタってやつ」と言った。恐らくは酔った時に何か馬鹿なことをしてそれを面白おかしく書きたがっているのだろうが、剛は小説を読まないし、わざわざそんなことを言われなければ生涯気づきもしなかっただろう。


 輝夜はじっと剛を見て、「おにぎり食べているところ、可愛い」とにっこり笑った。がたっと立ち上がった剛はおにぎりを呑み込み、「からかうのもいい加減にしてくれ。本気にする男もいるんだぞ」と言って足早にその場を去った。




 その日の作業を終えた帰り道、くたくたになりながら剛は書店の前を通る。個人でやっている小さな書店に、『そういえばあの漫画の新刊は出たのかな』と気になって目を遣った。ふと、“弱竹輝夜”の文字が見える。

「こんな目立つところに本が置いてある……」

 有名な作家さんだったのか、失礼なことしたな。

 そんなことを考えて、手を伸ばした。



「買ってしまった」

 家に帰り頭を掻きながら、剛は本を開く。こんなに文字の小さな本を読むのは久しぶりだ。買ったはいいものの最後まで読めないかもしれないな、と思いながらページをめくる。

 そのまま時間が過ぎ、愛猫に鼻でつつかれるまで剛は夢中になって本を読んでいた。「やべっ、もうこんな時間だ」と慌てて猫の餌を出す。「ごめんよホクロ」と謝れば、黒猫はまるで仕方ないわねという表情で剛の手のひらをぺろりと舐めた。




 次の日の昼も剛は公園で本を開いていた。

「こんにちは」と声をかけられ、顔を上げる。まるで昨日と同じように輝夜が立っていた。

「その本……」

「ああ、昨日はすまなかった。帰りに見かけて思わず買ってしまいまして」

「……どうですか?」

「すごくいいですよ。僕ほんとに小説とか苦手なんですけど、一日で読んじゃいました」

 輝夜は剛の隣に座り、「悪いところも仰ってください。率直なご意見が聞きたいです」と目を瞬かせる。「悪いところなんてそんな」と剛は鼻白んだ。輝夜がどうしてもと言うので、たじたじになりながら口を開く。


「強いて言えば、寂しいですかね」

「それは、二人が最後に離れ離れになるからですか?」

「離れ離れになるからというか、この女の子が思いを伝えないから、かな」

「……では佐伯さんはどうすればよかったと思いますか? 遠く離れた故郷に帰ることが決まっていて、お別れがすぐそばまで迫っていることをわかっていたヒロインは」

「やっぱり思いを伝えた方が良かったんじゃないかな。離れ離れになったとしても、一度は想いが通じあったということが二人のその後の人生を支えるかもしれないでしょ?」


 輝夜は瞬きをして、それからにっこり笑った。

「貴方の言うことも一理あります」

「いや僕の意見なんてそんな」

「だから……、一緒にお食事でもいかがですか?」

「今までの話と関係ありました? あなたみたいな美人がこんなおじさんと食事なんか言った日には、白い目で見られちゃいますよ」

 立ち上がった輝夜が伸びをして、突然「私、今まで色んな無理難題を皆さんにふっかけてきました」と言い出す。「ふっかけてきたんですか」と剛は当惑した。


「でも本当に求めていたことは、たった一つだったんです」

「なんですか?」

「“死ぬまで私を退屈させないでほしい”」

「はあ……僕には到底無理ですね。つまんない男ですから」


 ふふっ、と笑った輝夜が「難しいことじゃないですよ」と剛をまっすぐに見る。

「長生きしてくださればいいんですから」

 彼女はそう言い、その綺麗な白い手で剛の手を取った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る