第3話 祝子(はふりこ)③



 本殿には誰もいなかった。廊下続きの拝殿の気配をうかがったが、やはり誰もいないようだ。祝子が朝の鐘をついた後に本殿に寄った時には、宮司の連翹が祭壇前の座椅子で本を読んでいたが今はその姿はない。そして連翹だけでなく本当に「誰も」いないのは神無月ならではだ。


 常日頃、日名鳥神社には参拝客よりも神様が多くやって来る。八百万の神たちが境内を散策し飛翔し、本殿や拝殿の屋根裏に住み着いている神様もいる。中には悪口を聞こえよがしにつぶやいたり、足を引っかけてきたりの悪戯をしてくる神様もいて、祝子は連翹以外の神様たちが苦手だ。

 これが毎年神無月になると、鳥の巣箱のような摂社では申し訳ない有名どころの神様も、拝殿裏に居座っている小さな山伏姿の貧乏神や本堂でよく休んでいる狼の姿の神様のように名前をあまり知られぬ神様たちも、それぞれ出雲に旅立つ。怖く、気難しく、気まぐれに意地悪をしてくる神は皆いなくなり、祭神であり宮司である優しい連翹だけが残るこのひと月は、祝子の心も足取りも軽い。



 神なのに連翹だけが出雲に向かわずここに残るのは、彼が留守神だからだ。留守神とは、神無月である十月に出雲大社に向かわず、いつもいる場所の留守番を任される神のことだ。

 祝子は踏石で雪駄を脱ぎ、足袋で本殿に上がった。内陣外陣の区別もない小さな本殿中央に設けられた白木の祭壇に近づいた。雛壇状の祭壇には鋳造された甕や欠けた磁器、二枚貝の化石や白木の古代船の模型や何かの犬歯等がぽつんぽつんと置かれている。それらは如何にも神器等ではなさそうだし、最下段の端にはいつも連翹の読みかけの本が十冊程重ねてあることもあって、祝子は毎朝はたきで気楽に埃を払っている。

 祭壇の前には全面に波の模様の蒔絵が施された座椅子があって、座面をひょいと見ると鉄錆色の縮緬の座布団の上に連翹の黄色い小花がちらちらと落ちている。そのひとつをつまみあげてみると、黄色い色紙を裂いたような四枚の花弁が手のひらでゆっくりと泡立ち、そっとはじけるように消えた。


 そもそも通常連翹の花は春の百花繚乱の季節に咲き乱れ、十月には生薬として使える緑の実を付けているものだ。今この座面に散っている花はいわば連翹の影だ。宮司の連翹は植物神で、この土地の留守神なのだった。


 祝子が連翹を初めて見たのはまだ半分白猫だった頃だ。

 ある森の中に通年黄色い花を咲かせている連翹の灌木があって、その花を見ると気鬱が晴れるのだという噂を聞いたのがきっかけだ。噂をしていたのは猫や鳥で、どんなものかとふと興味をそそられ、祝子は見に行ったのだった。

 黄色い小鳥が群がっているようなその連翹の花盛りの姿はなるほど美しく、一目見てそれが鬼神の力だと知れた。祝子がしばらくその連翹を楽しみに森に通っているうち、連翹の方も半妖の猫を気に入ったのか徐々に親しくなっていった。ある時、なぜここで花を咲かせているのか尋ねたところ、守護していた人間と東国から旅をしてきたがこの近くで置いて行かれたのだという話を聞かせてくれた。

 その人間にとって連翹は守護神だったのだろうに、その守護神を捨てるとはまた寂しい話だが、当の鬼神は気落ちした様子もなく幾多の花々を咲かせている。また森の近くにある廃社が気に入ったらしく、たまにその半ば朽ちた神社の建物の中に魂を飛ばしてのんびり休んでいるらしかった。


 その後しばらく年月が経って、漏刻博士がこの神社を五宮と決めるにあたり、当然のように連翹神が主祭神となったが、当の連翹はそれだけに収まらず人の姿に化身して宮司を務めると言い出した。

 連翹神が言うには、守護していた人間は東国の公家で、その一族を長年観察していたので人間に化身するのが得意であるし、本体の連翹が古木となってきたのでそろそろ現世で咲き続けるのがつらくなった、こことは別の世の隠れ里で静かに咲き続けようと思う、と。

 その頃には森の中の連翹の古木は高さ三メートルを超え、枝ぶりも豊かに大きな放物線を描いて、美しい黄金の孔雀のような姿になっていて、それまで気鬱を晴らしに訪問していた鬼神妖獣半神半妖らにその花の姿を隠すことを惜しまれたが、結局連翹の希望はすべて叶えられた。その夜のうちに連翹の古木はすっきりと枯れ果て、静かに朽ち、かわりに無口で長身の宮司が誕生したのだった。


 更に連翹は森で咲いていた頃の美しさを懐かしむ神々たちから、留守神になるように決められた。出雲からの帰り道の目印になりそうな美しい記憶というわけだ。また、気鬱を晴らす効用がその土地にも安寧をもたらすと見なされたようだ。


 安寧。

 祝子にとっては連翹だけが残るこの神無月は、全くもって貴重な安寧の期間だった。


 普段の日名鳥神社の神々の往来はなかなかに活発で、ちょっとした地方の駅のようだ。本殿、拝殿、鐘楼、各祠等の神々の住処はもとより、中空からも地面からも鬼神半神等あらゆるものが文字通り神出鬼没で、そして、怖い。

 祝子はなにせたったひとりの職員なので、鬼神の気まぐれを一身に受けがちなのだが、一挙手一投足のどれが逆鱗に触れるやもしれず、叱責されてもその理由と原因に一貫性がないので基本いつも怯えている。連翹一柱だけがこの神社にいたらいいのに、といつも祝子は願っていた。連翹はそんな祝子を「あんまり怖がることはないよ、皆うちに勝手に来てるなあ、くらいの気持ちでいたらいいよ」と慰めてくれるのだが。

「でもなにしろ怖いんだもんなあ」


 祝子はつぶやいて本殿から短い廊下を渡って拝殿の裏の扉を開けた。拝殿の中は南面の格子戸からの光で薄明るい。格子戸の一部は床に備え付けの賽銭箱に投げ入れやすいように少し広い格子になっていて、そのせいもあり、格子戸の中央あたりがぼうっと光っているように見えた。そういえば昨日賽銭箱の中身を回収するのを忘れていたのを思い出す。賽銭泥棒が哀れに思って逆に募金してくれるのではないかという程の微々たる中身であるのが常だが、たまに参拝客の気まぐれか大金が入っていることがある。

「でも今日はなさそう」

 ちらりと賽銭箱をのぞいた祝子の足袋が落ち葉と砂を踏みしめる。格子戸から吹き込む落ち葉が増える季節だ。明日は十一日で月次祭つきなみさいだし、今日は念入りに境内の掃き掃除をすることに決める。もっとも月次祭とはいっても特別に祭を実施するわけではない。連翹と祝子二人だけで祝詞をあげたり拝礼するだけだ。ただ月次祭の日は回廊を巡回することに決まっている。祝子は回廊が不気味で恐ろしいのだが、連翹が回廊から帰ってこないかもしれない恐怖の方が勝り、いつも同行しているのだった。


 ともあれ掃除だ。毎日境内の掃き掃除はしているが、十月は落ち葉がさらに増える。落葉樹も色づくし、連翹と親しい「風伯」という名の風神が、神無月の期間はよく遊びに来るからだ。


「かみさまたち怖いのは、ハフリコだけじゃありませんよねえ」

 ひとりごとに応えるように、境内の上空で風が少し吹いた。

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