003
「気をつけて行ってくるのじゃよ」
ランタンを手に玄関口で向かい合う母さんは、優しげで儚い笑みを浮かべていた。
扉の外はまだ薄暗く、街が動き出す前の森閑とした空気が家の中にまで漂っているようだった。
胃が重いのは朝食に出された残り物のせいだけではないだろう。
たかが隣だと。すぐに再会できると。そんな題目に誤魔化されるようならどれだけ良かっただろうか。
「絶対帰ってくるから、心配しないで」
熱くなる目頭に気づかない振りをして、強がる言葉を吐き出した。
「心配しないわけないじゃろ」
苦笑を浮かべ、母さんは俺とリーナを胸へと抱く。
優しく温かな抱擁。覚悟を溶解させる白の光。
ぐちゃぐちゃに立ち現れる心象を振り払って、華奢な腕から逃れ出る。
「じゃあ」
「お母さんも元気でね」
フェルディとリーナは、その黎明に一歩を踏み出した。
母はいつまでも、その背を見守り続けていた。
我が家が見えなくなった頃合いに、リーナは小さな後悔を滲ませて呟いた。
「本当に言わなくてよかったのかな」
その言葉を聞き流す選択肢もあっただろう。だがフェルディは続けることにした。リーナは決して鈍いわけじゃない。だからこれは、覚悟を固めるために必要な過程だと信じた。
「……母さんは知ってたよ。じゃなきゃあんな……いや、明るく送り出してくれたはずだろ」
「でも……」
「じゃあ話すのか? 出ていった親父を探しに行くからここで待っててくれって?」
リーナは押し黙る。その告白は自分が楽になるためだけの偽善だとわかっているから。
「聞いたら止めなきゃいけなくなる。母さんは親父をずっと待ってるんだから」
前方に聳え立つ一本の大木が、薄闇の中で一層暗い影を落とす。世界樹と呼ばれる、リシュリア王国の中心。
目的地まで歩く時間が、心を整理するために与えられた最後の時間だった。
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