001

 世界は数百年を精霊種と獣人種間の戦争に費やした。

 嘘だ。

 世界はそんなに狭くない。

 リシュリアという国の中だけの話だ。

 まあ、外界を知ったのはここ二十年の出来事ではあったが。

 それまでは慥かに、この狭い国土が世界だったのだろう。

 その戦争を終わらせたのは一人の英雄だった。

 冒険譚に語られるような武勇もなければ、魔法の才もなく。

 ただ、交渉の場に立っただけ。

 その程度のことを拗らせていたのだ。この世界は。

 十一年後、英雄は姿を消した。

 今以て帰らない。

 俺は親父のことを何も知らない。


 青天の窓が断続的に震える。雑然とした二階の自習室から外を見下ろせば、対峙する二人の少年少女。春先には見物する生徒も多く見られたが、今ではむしろ窓側に空席が目立つようになった。

 純粋に煩いからな、あれ。

 また、空気が爆発する。

「うわぁー今日は一段と気合い入ってますね。フェルさんはあっち行かなくて良かったんですか?」

「ああいうのは元気な二人に任せるよ。俺はこっちでテキトーにやる。クッキー食べる?」

「いいんですか! いただきます!」

 数少ない見物客の一人、薄ピンクの長い髪をした少女は翡翠に真緋あけの階調を燻らせた双眸を煌かせる。期待にぴょこぴょこと動く猫生種レセクシアの耳を微笑ましく思いながら、黒髪の少年は手のひらに力を集中させた。

 瞬く間に小さな白い光が手の上で踊り始め、数秒で小麦色のクッキーへと変貌する。それを幼馴染みの少女に手渡すと、彼――フェルディ・ツー・クラウゼヴィッツは半ばで開かれていた書籍に視線を落とし、頬杖をついて欠伸を一つ。


 リシュリア王国、魔法学園。精霊種エゥシィプシアが十二年間在籍することになるこの学園では、初等四年次から基礎科目に加えて魔法ヘイズの知識が叩き込まれる。

 中等部からはそれぞれの魔法適性に合わせて学習し、修めた者は好きに学ぶ権利を有する。一番人気は口で花を咲かせる奇怪な話術だ。


「フェルさんのクッキーはいっつもおいしいですねー」

 上機嫌に尻尾を振って、シャルロッテ・アイヒホルンは満足気に顔を綻ばせた。

「菓子類は結構時間かけて練習したからなー。複合的な味創るのむずい」

「私もお返しに何か創れたら良かったんですけど、結局『伝達』課程終わりませんでした……」

 打って変わってしょんぼりとした声音に、フェルディは頬杖をやめた左手で自身の右腕を擦りながら言った。

「負担掛けてごめんな」

「いえいえ、私の要領が悪いだけですから。気にしないでください」

 手を振って否定を示すシャルロッテだったが、名案を思いついたように「そうだ」と言って続ける。

「今度手料理ご馳走しますね! いっぱい練習しますから!」

 むんと気合を入れて両拳を握る。

 それを見て茶化すようにフェルディは言った。

「遠慮しとくよ。あれはもう懲り懲りだ」

「でも、いつかちゃんと食べてもらえるものを作りますね」

 静かな意志を感じて、自然と目がシャルの瞳に吸い寄せられる。

 にこっ。

「だから待っていてくださいね! フェルさん!」

 鮮やかなまでの変貌に、フェルディは慌てて窓の外に視線を逃がした。

 女性とは実に怖いものだ。

 青い空は変わらない姿で彼を受け止める。

 また、空気が爆発した。


 休憩時間に入り、フェルディは依然熾烈な攻防が繰り広げられている屋外鍛錬場に向かった。

 空間を断絶する幽光が綺羅と瞬くや、轟と身を震わす大音響が上空で霧散する。

 ある種幻想的な、世界の鳴動を思わせるようなその手遊びは、彼の隣、から出現した小柄な少女によって終わりを告げられた。

「おうじさまーお兄ちゃん来たよー」

 少女は陽光を反射して輝く紅の瞳で遠方を見遣り、先までの絶技を匂わせない朗らかな声音で皇太子を呼んだ。

 リーナ・ツー・クラウゼヴィッツ。種族は兄と同じく森生種アイネシア。肩口をくすぐる濡羽色は、兄妹揃って否応なしに視線を集めることになる。フェルディより二歳若い中等部三年の彼女だったが、その特殊性から高等部の屋外鍛錬場を利用している。

 さて、年不相応な魔法戦を演じたもう一方の少年はといえば、挨拶代わりとばかりに一発の銃弾を放った。非殺傷性の弾丸であると思われるが、楽観視はできず、当たればそれなりに痛い。フェルディは即席で鉄の壁を創って進路を塞いだが、しかし。

 輾むような嫌な音が聞こえてくる。

「おい待て。正気か?」

 フェルディは親友の凶行に目を疑う。鉄板が食いちぎられるのであれば、彼の体など造作もなく。つまりはその殺意の乗った一撃に身動きがとれなくなる。

 やがて破壊の権化は顔を覗かせ、直情的に彼に迫り……倏忽として淡光の中に消え去った。

「そんな有様で大丈夫か?」

 学園指定の夏服に身を包んだ森霊種アインシアの少年が、殺気など微塵も感じさせない微笑を湛えて歩み寄る。淡黄色の短髪に空色の双眸、恐ろしいほど整った顔貌は見る者に怜悧な印象を抱かせる。

 グランツ・フォン・シェルヴィ。フェルディと同学年の十七歳にして、文武両道、魔法にも通じ、王女の一人息子として儲位に座す寧馨児ねいけいじである。

「にしたってお前やりすぎだろ」

 フェルディの言にグランツは肩を竦める。

 弾丸を飛ばすまではいいにしても、生成物を魔力サイレスに還す破壊魔法まで乗せられては対処のしようもない。

「まーだ奥の手見せてくれないのー?」

 生意気な妹は唇を尖らせてそんなことを言う。うるさい。無理なもんは無理。

 フェルディは「けちー」と芝を蹴り飛ばしている御年おんとし十五歳を無視して、明日に控えた出立の最終確認を行う。

「今更だが本当に大丈夫なんだよな? お前が国を出ていくってなったら学園中の女子が大騒ぎするぞ」

「そんな些事より心配することはあると思うけどな。まあ計画に変更はないよ。正式な通達は当分先だろうが、後継は腹の中の弟妹に委譲したしね」

 涼しい顔で王位の放棄を告げるグランツに、リーナは驚いた様子で捲し立てる。

「え、おうじさまが王子様じゃなくなるの? 次からどう呼ぼう。グラくん? うへぇ」

「呼称は何でも構わないから勝手に呼んで吐き気を催すのはやめてほしいな」

「じゃあグーちゃんにしよう。うん、いいね! かわいい!」

 ご満悦な様子のリーナに、グランツは苦々しい笑みを浮かべつつも止めはしなかった。

「付き合わせて悪いな。いろいろと」

「なに、生まれる前から知った仲だ」

 グランツはフェルディの肩を叩いて校舎の中に消えていった。

 直後廊下を走る女生徒がフェルディの目の端に映ったが、気のせいとして処理することにした。

「まあお兄ちゃんはいいじゃない。めんどいよ、モテるの」

 同じ場所を叩かれたはずなのに、妹の手は嫌に腹立たしかった。

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