53.
*****
ロジェは手拭いを絞りながら、憂いを含んだため息を吐いた。
ルキウスの頬へと手拭いを優しく押し当てて、横たわったまま目を覚まさない彼の姿を見下ろす。
(……よくもまぁ、こんなに殴ったもんだよ……)
カイがルキウスに掴みかかった時は、ロジェも卒倒しそうになった。同時に、あれほどの怒りをカイが抱えていたと知ると、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
16年前のあの日、ロジェのお腹には命が宿っていた。間違いなく、ルキウスの子だ。
当時のロジェはヒトから半魔になったばかりで、おまけに成人になったばかりの若造で、そして訳も分からず腹に子を宿す身となった。
これほど脆弱な生き物は存在しないのではないかと、当時は絶望しかなかった。
しかし周りに助けられ、そして自分も努力することで、少しずつ強くなることが出来た。
カイが成人、つまり15になるまで、ロジェはカイの側を離れないと決めていた。父親がいないカイが寂しくないように、たくさんの愛を注いだつもりだ。
しかしロジェの目標に常にルキウスがいることを、カイは気付いていたのかもしれない。
(……いや、でも……溜まりに溜まった不満を、初見の父親にぶちまけるとは。……さすがルキウスの息子だよ……)
耳を澄ませると、隣の部屋からマグウェルの怒号が聞こえる。愛しい息子は今、マグウェルからきついお叱りの言葉を頂いているところだ。
ルキウスへの暴力を咎める言葉より、シンに心的負担を掛けるなという苦言の方が多いような気がするのは、まぁ良しとしよう。
怒号を遠く聞きながら、ロジェはルキウスを見下ろす。
あれから数時間が経つが、まだ彼は目を覚まさない。
カイは自分が殴ったせいだと落ち込んでいたが、魔族の中でも強靭な肉体を持つルキウスが、半魔の拳ぐらいでどうこうなる訳もない。
しかし心配だという事は変わりなかった。
はぁ、と何度目かの溜息を吐いて、今日の自分の行動を後悔する。
ルキウスが会いに来てくれたというのに、ロジェが一番先に感じたのは恐怖だった。
カイの存在を知られたことが恐ろしくて、奪われるかもしれないと思うとどうしようもなく怖かった。
いつかは話さなくてはいけなかったことなのだろうが、まだ少しも心の整理が出来ていなかったのだ。
「……ごめんな……」
ルキウスの頬を撫でて、切れた口端を親指でなぞる。顔が痣だらけになっても、ルキウスはどうしようもないぐらい男前だ。
はは、と自分に呆れつつ笑っていると、ルキウスの唇が開いた。そして吐息と共に言葉が漏れ出す。
「……ジェ……! ロジェ……」
「……っ! ルキウス……?」
「……ロジェ、俺だ……! ああ、そんな……嘘だ……」
ルキウスの腕が浮き、何もない空間でさ迷う。ロジェはその腕を掴んで、ルキウスの顔を覗き込んだ。
未だに瞼は閉じたままだが、うわ言には確かに恐怖の色が感じられた。
ロジェはルキウスの身体を揺さぶり、強い口調で語りかける。
「ルキウス! そっちは夢だ、目を覚ませ!」
「……っウォーレン……! いやだ、置いて行かないでくれ……!」
「ウィンコット!!」
懐かしい名を叫んで、ロジェはルキウスの頭を抱きしめた。ルキウスの耳を自身の胸に押し付けて、ぎゅうっと強く抱きしめる。
「俺は……お前を置いてなんか行かない!」
「…………っ」
「……心音が聞こえるか? 俺はここにいるよ。だから……帰っておいで」
ルキウスが夢の中で何を見ているのか、ロジェには分かるはずもない。しかし恐怖に怯えるルキウスなど、見たくはなかった。
せめて目を覚ましてくれれば、怖い想いはしなくて済む。
ルキウスの瞼がゆっくりと開き、下から澄み切った緑色が覗く。相変わらずの美しい瞳に、ロジェはほっと安堵の吐息をついた。
多少ぼうっとはしているが、いつものルキウスだ。ロジェは気持ちを切り替えて、シン・アースターに戻る。
「ルキウス様……大丈夫ですか?」
「……」
「先ほどは、大変失礼しました。……傷の具合は如何です?」
ロジェはせっせと枕を集めて、ルキウスの背中の下へと敷いた。そこにルキウスの上体を持たれかけさせ、サイドテーブルに置かれた軟膏を取り出す。
マグウェルの配合した、とっておきの傷薬だ。魔族の魔力を吸収して、傷を早く治してくれる。
「これを塗れば、明日には綺麗に治ってますよ。ザザドさんにもバレないくらいかもしれません」
「……ロジェ」
「はい?」
振り返って、初めて気付いた。はっと息を呑んで、ロジェは慌てて首を横に振った。
「い、いや、今のは違う。間違えました。あれぇ? なんで俺……」
「ロジェ」
「……」
ルキウスの瞳が、真っ直ぐにロジェへと向いている。そしてルキウスは顔をくしゃりと歪め、名前を呼んだ。
「ロジェ・ウォーレン」
ルキウスの逞しい腕が伸びてきて、まるで閉じ込めるように抱き込まれる。その身体が震えていて、ロジェの心臓は急速に動き始めた。
ルキウスの鼻がロジェの肩口に埋もれる。そこから聞こえる声は、子供のようなすすり泣きだ。
「ウォーレン……生きて、生きていた……俺の……ロジェ……」
「ルキ、ウス……様……?」
「……ロジェ……あぁ、俺のロジェだ……」
ルキウスはロジェの髪に指を差し込み、まるで感触を確かめるようにぐしゃぐしゃと撫でる。
その仕草からどうしようもなく想いが伝わってきて、ぐっと喉が痛んだ。
気付いたらロジェも嗚咽を漏らしていた。ルキウスに名を呼ばれ、ロジェ・ウォーレンに戻ってしまう。
子供のように口をぽっかり空けて、わんわん泣き叫ぶ。
「……っああ、ごめ……、ごめん、な……ウィン……コットぉ……」
「……っどうして……どうして君が謝る?」
「っ、ふ……」
『君』と言われて、ロジェの涙腺が更に馬鹿になる。ぼろぼろと涙が溢れてきて、喉は小刻みに痙攣しはじめた。
「……っだって、まもれなか……った……ん、うなじ……っおまえとの、つがいの……っ」
「……っ!! ……っまさかそんなことを、気にしていたのか……⁉」
「そんなこと、とか……ひぐ、いうなぁあ……」
ついに言葉すらも紡げなくなって、嗚咽だけが漏れ出す。ルキウスはロジェの顔を両手で挟んで、顔を覗き込んだ。
所々腫れ上がった彼の顔は、もっとひどい事になっていて、ぼろぼろのぐしゃぐしゃだった。だけど今までで一番、素のルキウスがそこにいた。
「だって、きみは……君は守ってくれていただろう……⁉ 俺たちの一番大切な、繋がりだ……!」
「……っ」
「カイは……俺たちの子だ。そうだな……?」
ロジェはルキウスを真っ直ぐに見つめ、何度も頷いた。ルキウスは更に顔をくしゃりとさせ、震える唇で笑みを作ってくれた。
「ロジェ……俺、記憶が戻ったんだ……」
「うん、……うん」
「カイが鍵になってくれた。……あの子を守ってくれた、君のお陰だ……」
「……っうん……よか、った……」
ルキウスに負けないくらい、ロジェの顔もぐしゃぐしゃだろう。しかしお互いに見つめ合って、でろでろになった顔をくっつける。
「ありがとう、ロジェ。……そして、本当にごめん。ごめんな……」
「うぁあ……ひぐ、ちがう、おまえは、わるくない……っ」
「……っまったく、本当に……君は……」
触れている場所から体温を感じて、心の底から安堵を味わう。
ねだるように顎を持ち上げれば、まるで分っていたかのように唇が触れ合った。
くっついて離れるだけの優しいキスは、今までで一番、幸せにあふれていた。
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