45.

「……っ⁉ あ……っ、……?」


 建物の壁に手を付き、ロジェは襲い来る感覚に耐えようとした。心臓は収縮を繰り返し、まるで急かすように血液を送り出す。

 血が巡るたびに、熱が溜まっていく。脳内はぽやぽやと蕩け切り、下半身には力が入らない。


 この感覚には覚えがある。ヒートに違いない。

 ロジェは震える手で服の内側を探り、抑制剤を探す。いつもなら直ぐに取り出せるのに、ひどくもたついてしまった。


(……あ、つい……たすけて……)


 その場に膝をつき、ようやく取り出した抑制剤を握り締める。しかし手に力が入らず、その場に突っ伏してしまいたくなった。


 頭の中がルキウスで埋め尽くされる。彼に包み込まれ、征服され、成すがままにされたい。自分は彼の物なのだと実感したい。

 知らずに出ていた涙が、地面に吸い込まれていった。成す術もなく地面を見つめていると、耳に甘い声が潜り込んできた。


「……シン……」


 背後から包み込むように抱きしめられ、ロジェは抑制剤をその場に落とす。


「……シン……。俺に任せろ」

「……っ、ル、キ……さま……」


 抱きしめられた瞬間から、全ての思考を掠め取るような香りに包まれていた。ルキウスが吐き出す熱い息すら甘くて、歓喜が込み上げてくる。

 抱き上げられて、くたりとその身に縋り、ロジェはもう何もかも投げ出した。


 ルキウスはロジェを抱いたまま馬に乗り、涙を溢れさせる眦に唇を落とす。


「……シン、やはりお前だったか……」

「……っん……?」

「抱くぞ? いいな?」


 馬に揺られながら、ロジェはこくこくと何度も頷く。

 嬉しそうに微笑むルキウスは、しかし何かを耐えるかのように眉根を寄せていた。その悩まし気な表情が煽情的で、ロジェはごくりと喉を鳴らす。


「……っなんて顔してるんだ、お前は……」


 ルキウスは顔を赤く染め、視線を前へと移す。馬のスピードが上がり、ロジェは降り落とされないようにルキウスへと縋りついた。



*****


 何度目か分からない精を受け止め、項に優しく歯を立てられる。


 歓喜が身を包んで、ロジェは白い喉を晒した。もっと噛んでほしいと願えば、慰めるように唇が項に降ってくる。

 もうそこには新しい歯型があり、これ以上噛めば皮膚がずたずたになってしまうだろう。でもロジェは、それでも良いと駄々をこねた。

 ルキウスはそんなロジェを背後から抱きしめ、熱くて甘い吐息を吐き出す。


「あぁ、くそ、なんて可愛いんだ。……こんな生物がこの世にいるとは……」

「……ルキウス……様も……」


 まだ蕩けたままの頭で、ロジェは素直に言葉を口にする。横たわったままふにゃりと笑えば、たくさんのキスが降ってきた。


 ルキウスはロジェの身体から離れ、横に沿うように寝転ぶ。額と額がくっつくほどの距離で見つめられ、ロジェはその顔を堪能した。

 ずっと愛し続けていた男が目の前にいる。夢見心地のロジェは、微笑みながら彼を見つめ続けた。


 ルキウスは綺麗だ。ロジェは彼以上に美しい生き物を見たことがない。

 ルキウスはロジェの瞳を見返して、片方の口端をついと上げる。


「……『ルキウス』か。お前に呼ばれると、こんな名でも嬉しいものだな」

「…………っなま、え……きらい、ですか?」


 つっかえながら聞いて、涙が溢れ出した。

 聞いてしまってなんだが、ロジェはこの答えを知っている。


「ああ、嫌いだ。ルキウスひかりなんてありふれた名前、そこら中どこにでもいる」



『_____ ああ、嫌いだ。ルキウスひかりなんてありふれた名前、そこら中どこにでもいるだろ?』

『そうか? いい名じゃないか』

『ウォーレンはそう思うかもしれないが、魔族にはルキウスっていう男がたくさんいるんだぞ? そんな名で呼ばれたくないな。……特に大切な人には』



 頭に甦った声は鮮明で、まるで直ぐそこに昔のルキウスがいるようだった。

 ああ、彼は変わらない。そう確信すると、また涙が溢れた。


 ルキウスの心はきっと、ガラス細工のように繊細なのだろう。他人には想像できないほどの感情を抱いて、だからこそ傷つくと、修復が難しいのだ。



『____ なぁ、ウィンコット。ヒトの国では『ひかり』に別の言い方があるんだ』

『そうなのか?』



 目の前のルキウスに、あの頃のルキウスが重なる。

 あの頃からずっと、ルキウスはロジェのひかりだ。

 ルキウスはたまに、で呼んでほしいとロジェへねだった。


 ロジェは手を伸ばし、その名を口にする。


「……ルシオ。……俺のひかり……」


 記憶の中のルキウスが嬉しそうに破顔する。

 ロジェの手は力なくぽとりと落ちて、意識もそのまま深く落ちて行った。




******



 思わず、自分へと伸ばされた手を取り損ねた。

 シンが、別の男の名を口にしたからだ。


『ルシオ。……俺のひかり』


 そう口にしたシンは、慈愛に満ちた顔をしていた。

 しかもルキウスを真っ直ぐに見つめ、伝える相手に確信を持っているかのようだった。


「……シン……。お前はいったい……」


 戸惑いつつも視線を落とすと、シンの美しい裸体が目に映った。

 横たわったシンの身体には、ルキウスが付けた痕が至る所に散らばっている。

 何度も抱いた身体だったが、裸体は今まで見たことが無かった。彼が倒れたあの時も、背中の傷痕を確認しただけだ。


 シンの身体は驚くほど美しく、そして妖艶だった。

 情欲に逆らえず誰かを貪り食ったのは、ルキウスにとって初めての事だ。

 今もその熱は冷めず、シンと片時も離れたくないとさえ思ってしまう。


 シンの項に手をやって、まだ熱を持つ噛み痕を撫でる。まだ乾ききっていない血が、まるでルキウスを咎めるように白い肌に広がった。

 

「……すこし、やり過ぎたな……」


 スコル族は番を定めると、その項を噛む習性がある。

 噛んで自分の番を定め、その生き物を生涯守ると神に誓うのだ。二つの生き物は魂で結び付けられ、もしもそれが破られることがあれば、神から心を取り上げられるという伝承もある。


 ルキウスは迷うことなくシンを噛んだ。彼が番だと、確信があったからだ。シンはまさに運命そのものだった。 


 そして驚いたことに、シン自身も『項を噛んで』とルキウスへ懇願した。その時に抱いた感情は、どんな言葉でも言い表せない。

 歓喜が激情へと変わり、ルキウスは何度も項を噛んだ。彼の身体を思うがまま抱き、何度も彼の中で熱を放った。


「……それなのにお前は……他の男の名を呼ぶのか、シン……」



『____ 愛する人がいます』


 シンの言葉を思い出し、刃を突き立てられたかのように胸が痛む。シンの近くに居ると、失われたはずの感情が湧き上がってくる。

 そしてどうしてか、懐かしいような想いも。


「……もうお前は、俺の番だ。誰にも渡さん」


 シンの肩甲骨に唇を落とし、その形を確かめるように柔く歯を立てる。思う存分堪能したあと、ルキウスは横向きになっているシンの身体を抱え込んだ。

 仰向けに寝かせ、ずり落ちてしまっていた毛布をしっかりとシンの身体に掛ける。そしてルキウスは、その頬をやんわりと緩ませた。


 枕に後頭部を埋もれさせ、ふわふわの毛布に包まれているシンを見ると、今まで感じたことのない充足感が満ちていく。

 このまま寝顔を眺めていたいが、ルキウスには考えなければならない事が山ほどあった。

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